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毎年恒例の、高所作業車でのクモの巣取り。
暮れの大掃除ではどうしても手が回らず、年を越してからの作業になるのが、ここ数年の流れだ。
工場の天井は高い。
脚立では届かず、12メートルの高所作業車を借りて行う。
下から見上げていると大したことがないように思えるが、いざ上がってみると、なかなかの高さだ。
クモの巣を一つずつ取り除いていく。単純な作業だが、高さのせいか、気は抜けない。
このクモの巣取りが終わらないと、どこかにやり残し感が残っていた。
見えない場所に残ったままのものが、頭の片隅に引っかかっている感じだ。
だから毎年、これを終えるとようやく一区切りがつく。
せっかくなので、この際とばかりに、高い場所の小さな修理も済ませた。
こういう時に助けになるのが、前職で取得した資格だ。
群馬県まで行かせていただいて、同僚と新幹線に乗って取りに行った。
今思えば、あれはちょっとした小旅行のようで、なかなか楽しい思い出でもある。
当時は、いつ使うかも分からずに取った資格だった。
それがこうして、今の仕事の中で役に立っている。
過去の時間や経験が、形を変えて今につながる瞬間は、静かにうれしい。
明日から二月。とにかく寒い。
それでも、陽は確実に長くなっている。
夕方、工場の外に出たときの空の明るさが、ほんの少し違う。
春用のコートは、もう買ってある。
まだ出番は先だと分かっているが、クローゼットを開けるたびに目がいく。
クモの巣がなくなった工場で、次の季節を迎える準備は、たぶん整った。
春は、もう来ている。
まだ空気は冷たいけれど。
東京出張二日目。
中期経営計画を立てる勉強会に参加している。利益、戦略、数字、未来。
ノートを取りながら、改めて目にとまったのはドラッカーの言葉だった。
「企業の目的は顧客の創造」
そして、企業の基本的な機能は二つだけ。マーケティングとイノベーション。
成果をもたらすのも、この二つだけで、それ以外はすべてコストである、と。
ここでいう成果とは、売上や利益のことではない。
成果の本質は、外の世界に変化を起こすこと。
売上はいくらか。利益はいくら残ったか。
もちろん大事だ。でもそれは結果であって、目的ではない。
本当に問うべきなのは、
お客様はどう良くなったのか。
社員はどう良くなったのか。
ここが抜けた瞬間、経営は数字遊びになる。
売上を伸ばした。規模を大きくした。競合に勝った。
それはどこか、子どもの頃のメンコ合戦に似ている気がした。何枚取ったか、誰に勝ったか。場が終われば、残るのは数だけだ。
でも経営は、本来メンコを集める遊びじゃない。
関わる人の現実が、昨日より少し良くなること。
その積み重ねの先に、たまたま数字がついてくる。
仏教に「自利利他」という言葉がある。
自分だけでなく、他者も良くなる。ドラッカーの言う成果と、同じ匂いがする。
二日目の勉強会で増えたのは、ノウハウよりも問いだった。
社長の仕事とは何か。
経営というメンコ合戦から、そろそろ降りてもいい頃なのかもしれない。
今日は習字の練習日だった。
師匠から、ありがたくも初段合格のお祝いの筆を頂き、すぐ使わせてもらった。
弘法筆を選ばず、と言う。名人は道具のせいにしない、という意味の言葉だ。
逆に言えば、もう筆のせいには出来ない。
師匠からこんな素敵な筆を頂いてしまった以上。
とはいえ、この筆がまた書きやすい。
ずっしり重みがあり、毛先がしなやかだ。ミニバンからスポーツカーに乗り換えたような、ハンドリングの楽しさがある。線を引くと、筆がスッと進み、止めいたいところで止まった。
字は正直だ。
調子のいい日は、それなりの線になる。
気が散っている日は、それなりに出る。
ハンドリングがいい分、悪い癖なんかもそのまま出てしまうだろう。
練習を終えて帰る道すがら、冬物のセール、モアセール開催中の案内がメールに何通も届く。
狙っていたコートは結局セールにはならなかったが、思い切ってポチッと買うことにした。
これまで似合わないと思って、避けてきた色と形だ。
習字の目標と共に、こちらも今年の目標に入れていたものだ。
変化を楽しめる春が待ち遠しい。
面白い記事を読んだ。
近年、ご飯にかける「ふりかけ」の消費量は増えているのに、肝心の「米」の消費量は減っているという。物価上昇や節約志向を背景に、ふりかけ市場は拡大し、販売額は過去最高。一方で、白米そのものを苦手とする子どもも増えているらしい。
ふと、妙な感じがした。
本体に対する苦手から、ふりかけが求められているのか。
それとも、もはや「デフォルトがふりかけ」なのか。
本来は、白米があって、ふりかけがある。
ふりかけは、味を足すものというより、引き立てるものだったはずだ。
けれど使い方次第では、白米の味を感じなくさせてしまう。
それにしても、「本体」が軽んじられていく感じは、どこか他人事ではなかった。
自分自身も、ときどきそんなふうに感じることがある。
役割、肩書き、情報、評価、常識。
日々の暮らしの中で、私たちは無数の“ふりかけ”を浴びている。
気づけば、それがないと味気なく感じる。
けれど本当は、自分の中にも、ちゃんと味はあるはずなのに。
白米が、うまい。
そう感じる瞬間は、たしかにある。
噛むほどに甘みが出て、湯気の匂いと一緒に、身体に沁みてくる。
あの感覚を、私は確かに知っている。
それなのに、日常に戻ると、その感覚をすぐ忘れてしまう。
味がなくなったのではなく、味わわなくなっている。
現代人は、私も含めて、そこが一番鈍っているのかもしれない。
だからこそ、そこに気が付くこと。
目を向けること。
翻って、着飾るよりも、自分磨き。
足す前に、噛む。
盛る前に、味わう。
今日の白米を、ちゃんと噛んでみようと思う。
人は、決めつけて楽になりたい生き物だと思う。
世の中はこういうものだ、自分はこういう人間だ、今日はこういう一日だ。そうやって世界にラベルを貼ると、考えなくて済むし、少し安心もする。
けれど、その決めつけが、あとから自分を苦しめることがある。
世界が狭くなったり、身動きが取れなくなったり、同じところで何度もつまずいたりする。
守るために作った見方に、縛られているような感覚。
それが、最近よく考えている「マインドセット」というものなのかもしれない。
おっかない言葉だと思う。
前向きとか、成長とか、軽やかに語られるけれど、本当はもっと深いところで、ものの見え方そのものを決めてしまう装置だ。
しかも本人は、それを「考え方」だとは思っていない。「現実」だと思っている。
じゃあ、それに気づく瞬間って、どんな時なんだろう。
考えて答えが出るものでもなさそうだ。
むしろ、身体が先に動いたとき。
管理が外れたとき。
そんなことをぼんやり思いながら、今日から一つだけ実験をしてみることにした。
早起き、ではなくて、正確には「二度寝をやめる」。
目覚ましが鳴ったら、考えずに起きる。
パッと起きて、布団から出る。
二度寝って、ほんの数分だけど、あの中には「まだ現実に入らなくていい」という小さな逃げ場がある。
昨日の続きに戻る場所。
もう分かっている世界に引き返す場所。
そこを使わずに、一気に起きる。
それはたぶん、健康法というより、態度の問題で。
今日がどんな一日か決める前に、世界の側に立ってみる、ということ。
起きた直後の部屋の温度。
外の暗さ。
音の少なさ。
マインドセットを「変える」なんて大それたことはできないけれど、
マインドセットが動き出す前の時間に、そっと立ってみることはできるかもしれない。
二度寝をやめる。
それだけのことで、世界の入り口の質感が、少し変わる気がしている。
令和七年一月一日。
私は七つの目標を立てた。
手帳の最初のページに書いたそれらは、正直に言えば、かなりぼんやりしていた。
「こうなったらいいな」という願いと、「たぶん簡単ではない」という予感が、同じ行に並んでいた。
あれから一年。
いや、正確には一年と少し。
その中のひとつが、今日、ようやく“工事”という形になって動き出した。
目標というのは不思議なもので、立てた瞬間には何も起きない。
けれど、頭のどこかに居座り続ける。
新聞記事が急に目に入るようになり、人の話が引っかかるようになり、「たまたま」の顔をした情報が集まり始める。
動き始めてからは早かった。
埼玉へ走り、名古屋へ走り、
会って、聞いて、断られて、また聞いて。
期待して落ち込んで、
「やっぱり無理かもしれない」と何度か思った。
正直、一度は諦めかけたプロジェクトでもある。
現実はいつも、理想より重たい。
数字も、制度も、距離も、簡単には越えさせてくれない。
それでも、不思議と完全には手放せなかった。
そのたびに誰かが言葉をくれた。
具体的な助言だったり、
「面白いですね」という一言だったり、
黙って話を聞いてくれる時間だったり。
自分ひとりだったら、たぶん終わっていたと思う。
多くの人の励ましとサポートに押されるようにして、
気づけばプロジェクトは、現実の輪郭を持ちはじめていた。
そして今日、工事が始まった。
まだ完成ではない。
むしろ、ここからが本番なのだと思う。
しかもこれはゴールではない。
新しい夢を実現するための、ひとつの足掛かりにすぎない。
構想は現場になり、
現場は、次の構想を呼びはじめている。
達成率で言えば、99%くらいだろうか。
残りの1%は、たぶん怖さだ。
本当に形になる瞬間を迎えるときの、あの独特の緊張。
でも今は、それも含めて、ちゃんと味わいたいと思っている。
ぼんやりした目標でもいい。
立てて、忘れずに、動き続けていれば、
人に出会い、場所に出会い、現実が追いついてくる瞬間がある。
今日は、その途中経過の記録として。
当社ではここ数年かけて、事務所の書類をすべて見直してきた。
棚にあるもの、倉庫にあるもの、個人の机の中にあるもの。
部署ごと、担当ごとに分かれていた書類を一度すべて集め、出して、確かめ、分類し直す。
いわば、事務所の「総点検」だ。
全部を取り出して、確かめる作業。
正直に言えば、気が遠くなる。
ファイルを開けては閉じ、束をほどいては分け、また戻して、また迷う。その繰り返しだ。
整理そのものは、根気さえあれば完成する。
やることは単純だ。出して、分けて、決めて、戻す。
時間はかかっても、手を動かし続ければ、必ず終わりは来る。
それでも、ここまで来るのに6年かかった。
やっと、ゴールが見えてきた。
長かったのは、作業ではない。
書類は、ただ黙ってそこにある。責めもしないし、主張もしない。
立ちはだかるのは、いつも人だ。
私たちは、つい書類を「自分のもの」にしたがる。
自分の引き出し、自分のフォルダ、自分しか分からない場所。
それは責任感でもあり、愛着でもあり、ときに不安の裏返しでもある。
しかし、仕事の書類は、本来、誰かの所有物ではない。
みんなで使う情報資源だ。
末の娘の高校受験が近づいている。
学校でも面接練習が始まっていて、
どうやら娘は「模範的な回答」を一生懸命、覚えているらしい。
もっと長く話した方がいいと先生に言われたそうだ。
先生の本意が本人に伝わっているのかは、正直あやしい。
けれど、とにかく長く話せるように頑張っているようだ。
そんな流れで、
家でも「面接官役」を仰せつかることになった。
これまでも、何人かの子どもたちにやってきた。
小林家の面接練習は、ノックして入室するところから始まる。
そこだけは、なぜか本格的だ。
「どうぞ」
と言うと、娘は少し緊張した顔で入ってくる。
……が、照れ隠しか笑ってできない様子。
聞くと、
昔、上の子たちの練習のとき、
なぜだか分からないが、私は大声で怒ったことがあるらしく、それで子供達みんなで隠れた記憶が蘇ったらしい。
私はまったく覚えていない。
けれど子どもたちは、そういう場面だけ、よく覚えている。
気を取り直して面接練習スタート。
質問を投げると、
教科書みたいな言葉が返ってくる。
明らかに目が泳いでいて、
暗記した文章を声に出しているだけで、どうにも心がない。
「……それ、本当にそう思ってる?」
と聞くと、娘は少し間をおいて、
「思ってない」
と、正直に言った。
私は思わず笑ってしまった。
「自分の言葉で話せばいいんだよ。
志望理由が本当に思っているなら『制服が可愛かったから』でもいいんだよ」
そう言うと、娘は少し困ったような顔をして、
でも、もう一度、話し始めた。
さっきより短い。
言い直しも多い。
でも、さっきより、ずっといい。
内容じゃない。
正解でもない。
“その子が話している”感じが、ちゃんとあった。
面接試験の意図というのは分からない。けど見ているのはきっと
自分の言葉で、この場所に立とうとしているか。
それだけだと思う。
そしてこれは、
面接官役をしながら、ちょっと思った。
お片づけの現場に立っていると、ときどき首をかしげることがある。
なぜ、この家のボトルネックが見えないのだろう。
なぜ、打開策が立たないのだろう。
物の量の問題でも、収納の問題でもない。
明らかに流れが止まっている場所がある。
けれど話を伺っていくと、いつの間にか全く関係のない「自分はこういう人間で」という話になり、できない理由が次々と積み上がっていく。
この光景は、業務改善の現場とまったく同じだ。
工程の話をしているはずなのに、性格の話になり、忙しさの話になり、昔話になる。
現象は語られるのに、構造には触れられない。
人は不思議なほど、同じ場所で滞り、同じ場所でつまずく。
話を聞きながら、ときどき思ってしまう。
本当に見えていないのだろうか。
それとも、見ないようにしているのだろうか、と。
ボトルネックが見えた瞬間から、現実は動き出す。
決めなければならないことが生まれ、変えなければならないことが現れる。
自分のやり方に手を入れる必要が出てくる。
人はそれを、本能的に知っているのかもしれない。
だから話は、自称に流れる。
事情に流れる。
できない理由に流れる。
けれど、お片づけも業務改善も、突き詰めればとてもシンプルだ。
変えられるのは、自分しかいない。
ここに気づいたとき、世界の見え方が変わった。
そして同時に、これはとても楽しいことだとも思った。
自分の頭で考える。
小さく動いてみる。
置き場を変える。
聞き方を変える。
順番を変える。
すると必ず、何かが起こる。
部屋が変わらなくても、会話が変わる。
会話が変わらなくても、見え方が変わる。
見え方が変われば、次の一手が生まれる。
動けば、必ず変化は起こる。
多くの人が欲しがるのは「答え」だ。
正解が欲しい。
これをやればうまくいく、という地図が欲しい。
けれど現場に立っていると、はっきりしてくる。
答えなんて、いつも変わっていく。
暮らしが変われば、正解も変わる。
会社が変われば、やり方も変わる。
自分が変われば、見える世界が変わる。
昨日の答えは、今日の前提にはならない。
だから私は、答えを出して終わりにしたくないと思っている。
答えを出して、思考を止めるな。
答えは仮置きでいい。
それよりも、動き続けること。
試し続けること。
変化を起こし続けること。
お片づけも、業務改善も、経営も、暮らしも、
必要なのは「正しさ」より「動き」なのだと思う。
動かせる自分でいること。
更新できる自分でいること。
必要なのは、答えではない。
変化だ。
高1の息子と楽器屋に言った。ベースを買うためた。
私は高校一年のときにギターを始めた。
だから、息子が高校の音楽クラブでベースをやりたいと言った時、始めるには、いいタイミングだと思った。
二人で楽器屋へ行き、壁一面に並ぶギターやベースの前に立つ。息子は急に無口になり、目だけが忙しく動く。何本か触るうちに、一本、やけに手に馴染むものがあった。
値札を見る。
……予算の二倍。
ん〜どうしよう。
一旦、家に帰ろう。
ショップにいると、冷静な判断ができなくなる。これは自分の経験でよく知っている。
家に戻り、妻に相談する。三人で話す。すると息子が、「俺も出す」と言って、貯めていた虎の子を出すと言う。
私はこれまで、何を手にするかで、その後の取り組みが変わる場面を何度も見てきた。
「一本目は妥協するな」
これは、一本目に限った話ではないのかもしれない。
予算も、分相応も、もちろんある。
その中で妥協すると、それは後悔になる。
とくに、趣味の物なら、なおさらだ。
それで、決めた。
一本目にしては、かなり上等なベースを手に入れた。
家に帰ってアンプにつなぐ。
ぼん。
低くて、丸い音。
ここからだな、と思った。
チューニングメーターの使い方、アンプのセッティングやフォームを軽く教える。私がギターを始めた頃は、チューニングができて音が出るようになるまで一か月かかった。それが息子は一時間。
息子の学校で出された課題曲は、モンゴル800の「小さな恋のうた」だという。
発表は、一か月後。
それを見ていた末の娘が言った。
「私、ドラム買ってほしい。」
……なるほど。
うれしい悲鳴、というやつかもしれない。
このベースが、埃をかぶって、しまい込まれるか。
それとも、一生の趣味になるのか。
それは、まだ分からない。
私もかつて、父に連れられて、仙台の楽器屋でギターを買ってもらった。
その日のことを、私は今でもはっきり覚えている。
今日が、息子にとっても、
そんな一日になってくれたらと思う。
今日は、市役所と税務署に行った。
用事自体は、よくある事務的なものだ。
けれど建物に入った瞬間、手続きより先に、ある風景が目に入った。
多い。とにかく高齢の方が多い。
椅子に座り、番号札を握り、窓口を見つめている背中が並んでいる。
「こちらはLINEで登録していただいて、予約してからになります」
「マイナンバーの暗証番号、分かりますか?」
窓口の向こうで、担当の方がやさしい声で聞いている。
もちろん、高齢の方は分かっていない。
それは怠けているからでも、努力が足りないからでもない。
ただ、その仕組みが、その人の人生の速度と噛み合っていないだけだ。
後ろを見ると、列はどんどん伸びている。
誰も怒っていない。
誰もサボっていない。
みんな真面目で、ちゃんとしようとしている。
だからこそ、そこに漂っていたのは苛立ちではなく、
全員が、少しずつ気の毒な空気だった。
印象的だったのは、説明している担当者の方の表情だ。
彼は相手にこの情報が伝わっていないことを理解している。
私たちも、高齢者の依頼者が多い。
中には、自分の住所が言えない人もいる。
カレンダーに書いてある電話番号を見て、
「これ、何の番号だったかな」と言いながら、
粗大ごみの依頼を忘れて電話を日に何度もかけてくる人もいる。
誰かの助けがないと、
もう手続きどころか、
日常そのものが成り立たない人たち。
そしてその「誰か」は、
家族だったり、近所の人だったり、
ケアマネさんだったり、
そして時々、私たちだ。
実は私自身も、電子申請にチャレンジはする。
けれど結局、紙で出していることが多い。
正直に言えば、それが本物なのか、詐欺なのか、
一瞬わからなくなることもある。
分かっていない人。
分からせられない人。
ついていこうとしている人。
今日の窓口は、これからの社会の仕事風景そのものだった。
仕組みが先に進み、
人の速度が、少し遅れている。
その間に立って、
今日も誰かが、説明し、聞き、支えている。
便利で気の毒な社会だ。
鳥獣被害という言葉の中には、クマの被害も含まれている。
庄内でもクマの出没情報は珍しくなくなり、ニュースになるたび、空気が一段重くなる。
イノシシやシカは畑の話になるが、
クマは命の話になる。
クマにも命があるということは、誰しもが思うところだ。
それでもクマは、ニュースになり、警戒情報が出て、出動要請が出て、銃が向けられる。
その事実の前では、正しさはいつも、いくつも並ぶ。
そんなことを考えながらも、
我が家の軒先には、今日もスズメがやってくる。
十羽ほどだろうか。
実は鳥の餌を撒いている。完全にこちらの都合なのだが、それがまた可愛い。
懐くわけではない。
近づけば一斉に飛び立つ。
それでも必ず来て、来ると決まって賑やかだ。
ピチピチと鳴きながら、
小さな体で場所取りをして、
誰かが追い出されて、誰かが割り込んで。
ある日、妻がふと気になって、スズメの寿命を調べた。
一年ほどだという。
その数字を見たとき、少しだけ、スズメの見え方が変わった。
一年の命。
毎日来ているこの中に、
もう春を迎えられないやつもいるのかもしれない。
そんなことを考えたこともなかった。
今日も雪の上に、意外と大きな足跡を残して、スズメたちがやってきた。
人と野生の関係は、いま、そのちょうど難しいところに来ている気がする。
それでも雪の上の小さな足跡を見ていると、
被害の前に、
管理の前に、
まず「生きている」があるのだと、思わされる。
本日、仕事始め。
一年が、静かに動き出した。
朝から降っていたのは、ぼたぼたと重たい雪。
いかにも庄内の冬らしい雪だな、と思いながら会社に向かう。
けれど駐車場は、すでにきれいに除雪されていて、すんなり車を停めることができた。
休み中に、スタッフが手を動かしてくれていたのだ。
こちらが何かを言わなくても、
必要なことを感じ取って、動いてくれる人がいる。
これはもう、はっきり言っていいと思う。
すみません、自慢です。
仕事というのは、結局のところ「人」だ。
制度や仕組みも大切だけれど、
最後に現場を支えるのは、こういう行動だと思っている。
正月に帰省していた娘たちは、それぞれに東京へ戻っていった。
家の中は、少しだけ静かになった。
寂しさがないわけではないが、
それぞれの場所に戻っていくのが、今の家族のかたちなのだろう。
今回の正月は、久しぶりに家族そろって紅白歌合戦を観た。
「この人たち、みんな同じ顔に見えるんだけど。俺だけ?」
そんな一言に、娘たちが一斉に反応する。予想通りのリアクション。
それでも、
「やっぱり、えーちゃんはかっこいい」
となると、そこは意見がそろう。
そして小林家恒例のモノポリー大会も、例年通り。
今年は、私が大勝ち。
流れが来る年というのは、こういうところにも表れるらしい。
勝った負けたはさておき、
同じテーブルを囲んで、同じ時間を過ごすこと自体が、もうイベントなのだ。
紅白も、おせちも、モノポリーも。
みんなで観る。
みんなで食べる。
みんなで楽しむ。
だから、もっと楽しい。
派手な正月ではないが、
こういう時間があることを、素直にありがたいと思う。
帰り際、娘たちをグッとハグして見送った。
特に言葉は交わさなかった。
家族がそれぞれの場所へ戻り、
会社では、信頼できるスタッフと一緒に、新しい一年が始まる。
静かだが、足元はしっかりしている。
今年は、そんなスタートだ。
年始から、ひとつだけ続けていることがある。
それはギターだ。
ギターを始めたのは高校時代。
そもそものきっかけは、とてもささやかなものだった。
母親がフォークミュージックが好きで、
「弾いてくれたら嬉しいな」
子どもの頃に、そんなことをぽろっと言ったのを覚えている。
その一言に応えたくて、ギターをやってみようと思った。
だから本当は、アコースティックギターを弾きたかった。
ところが高校に入って、クラスメイトに
「ギターって何から始めればいい?」
と聞いたら、返ってきたのは
「俺の家来い」
の一言。
そこで初めて見せられたのが、エレキギターだった。
当時はバンドブーム。
ギターを手にする若者は山ほどいた。
そしてその多くが、きっとそうだったように、
“何者かになろう”としてギターを持っていたんじゃないかと思う。
気がつけば私も、最初のきっかけなんてすっかり忘れて、
クラスメイトと一緒に、何者かになろうとしてギターを練習していた。
結局、何者にもなれないまま、
あの頃の時間はあっという間に終わってしまった。
ただ、不思議なことに、
その火種だけは消えなかった。
大した上達もしないまま、
ギターはずっとそばにあって、
年月だけが静かに過ぎていった。
そして今年。
その燻りに、いったん終止符を打とうと思った。
ギターを手放そう。
そう決めたのだ。
数年前に購入した、とびきり素敵な一本がある。
壁に飾っておくには、あまりにももったいない。
相当に吟味して選び抜いた、素晴らしいギターだ。
それをインテリアにしてしまうのは、どうにもかわいそうだった。
手放そうと考えたとき、
ふと、ひとつのことに気がついた。
――自分は、ギターで何者かになろうとしていたんじゃないか。
高校時代のマインドセットが、
ギターを弾くことそのものを、
つまらなくしていたんじゃないか。
手放そうとしなければ、
きっと一生気づかなかったことだと思う。
そう気づいた途端、
不思議とギターが素直に弾きたくなった。
正月は、毎日ギターに触れていた。
そして、
「なぜギターを弾きたかったのか」
その初心を、ようやく思い出した。
今年の目標のひとつに、
両親(私の両親、妻の両親)四人を招いて、
長寿のお祝いをする、というイベントがある。
その場で、
母が好きだった「なごり雪」を
ソロギターで弾く。
そんな目標が、自然と生まれた。
何者かになろうとする気持ちは、
形を変えながら、これまでずっと自分の中にあった。
けれど、その気持ちが
すっかり消えていることに、
手放すことで気がついた。
何者かになる必要はない。
たぶん、もうなっている。
自分として生きる。
それは、自分を受け入れられた時に始まるのだろう。
今年は、そんな元年なのかもしれない。
なんとも言えず、
爽快な気分でいる。
新年が始まりましたね。
朝起きて、まずやったことは、やっぱりお片づけでした。
とはいえ、普段からそれなりに片付けているつもりではあります。
でも、ふとした瞬間に「今だな」とスイッチが入って、やり始める。
新年という区切りは、やっぱりそのきっかけになります。
今日は、いつも仕事で使っているバッグにバッグフォルダーを設置しました。
それから、娘のバレーボール部引退に伴って、あまり出番のなくなった自慢の望遠レンズの置き場を変更したり。
どれも大きな変化ではありませんが、一年の中で環境は確実に少しずつ変わっている。
その変化に、こちらの感覚を合わせ直していくような時間でした。
これは、メガネを新調したときの感覚に少し似ています。
それまで特別ぼやけているとは思っていなかったのに、新しいメガネに替えた瞬間、世界がくっきりと見え始める。
「ああ、こういう輪郭だったのか」と、あとから気づくあの感じです。
お片づけも同じで、困っているわけじゃない。
不便でもない。
ただ、ほんの少し整えるだけで、動きが滑らかになり、気持ちまで静かになる。
使わなくなったから手放す、というほどでもない。
けれど、今の暮らしや仕事の動線には、少しだけ合わなくなってきたモノたち。
だから、役割に合わせて居場所を変える。
お片づけをしていると、モノを整理しているようで、
実は家族の時間や、自分のステージの変化をそっと確認しているのだなと思うことがあります。
新年一発目は、やっぱりお片づけから。
何かを大きく変えるというより、「今の自分に、きちんとピントを合わせる」。
そんなスタートが、今年はちょうどいい気がしています。