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| 電話対応 | 8:00〜12:00/13:00〜17:00 |
| 定休日 | 日・祝・土曜不定休・年末年始 |
当社は今日で御用納め。
とはいえ、明日31日も数名のスタッフが出勤してくれる。年末の区切りというのは、きれいに線が引かれるものでもないのだと、そんなことを思う。
それにしても、今年の冬はやけに暖かい。
正月前のあの張りつめた空気や、凛とした寒さがなくて、「ああ、もう年が変わるんだな」という実感が、どうにも湧いてこない。私だけだろうか。
そんな中、義母から電話があった。
子どもたちにお年玉を8,000円ずつ送ったという。
「なんだか半端だね」と妻が言うと、その理由が面白かった。
来年は令和8年。末広がりの「8」だから、8,000円なのだそうだ。
なるほど、そういう願いの込め方もあるのかと、少し嬉しくなる。
今年最後の買い物は、コンビニで済ませた。
レジで受け取ったレシートを何気なく見ると、合計金額は888円。
これはなんとも景気がいい。
願掛けのような気持ちでそのレシートを持ち帰り、小林家のグループLINEにアップした。
振り返れば、今年もいろいろあった。
ただ、不思議なことに、今年ほど自分を成長させてくれた年はなかったように思う。
思い通りにいかない出来事も、立ち止まった時間も、あとになってみれば、すべてが自分をつくる養分になっていた。
今はまだ、その成長がはっきりとした形になっているわけではない。
けれど、この一年で積み重ねてきたものが、来年きっと花をひらく。
そう信じて、新しい年を迎えたい。
派手さはないけれど、悪くない年の締めくくりだ。
静かに、そして前を向いて、今年を終える。
昨日は、地域にお片づけの魅力を発信していこうという、稀有な団体、庄内お片づけ部の忘年会がありました。
年末らしく、まずは今年の活動を振り返るところから話は始まります。
整理収納アドバイザー東北フォーラムのホストを務めたり、無印良品酒田にブース出店したりと、忙しくも手応えのある一年でした。
その渦中にいるときは余裕がなくても、こうして年の終わりに言葉にしてみると、「ちゃんと前に進んでいたな」と静かに実感します。
話題は自然と映画の話へ。
庄内お片づけ部は、私以外は全員女性。
同じ映画を観ていても、登場人物の感情の揺れや、言葉にされなかった背景に目を向ける視点がとても細やかで、聞いているだけで視界が少し広がる感覚があります。
スクリーンに映っていたのは同じはずなのに、見えていた景色はそれぞれ違っていたようです。
それで、2枚目も好きなんだけど、映画でいちばん印象に残るのは、2.5枚目だったりする話とか。納得でした。
完璧すぎる主人公より、ちょっと格好よくて、でもどこか抜けている。決めきれない場面があったり、余計な一言を言ってしまったり。
その“0.5枚分の人間味”がある登場人物こそ、エンドロールの後にふと思い出される存在だったりします。
そのまま話題は波動の話だったり、スピリチュアル界隈では来年は流れが変わるらしい、なんて話まで。
とはいえ、どれも肩に力の入った話ではなく、片づけも、映画も、スピリチュアルな話も、結局は
「今の自分は、どんな状態で生きているのか」それを確かめる時間だったように思います。
にぎやかではないけれど、心地いい。
今年をきちんと終えて、少しだけ前を向けた、そんな忘年会でした。
私は父の会社を継いだから、
仕事というのは、これしかないと思ってきた。
それでも、ときどき思う。
本当は、自分は何をしたいのだろう、と。
腕時計が好きだから、
「65歳になったら、時計屋さんにでもなろうかな」
と妻に言う。
「儲からなそう」
そう言って、妻は笑う。
でも私は知っている。
父から受け継いだのは、清掃という仕事だ。
そしてこの仕事をしているとき、
自分はいちばん幸せだということを。
楽な仕事ではない。
無理をすることもあるし、
しんどい現場もある。
それでも、現場に立っていると、
自分がちゃんと、ここにいる感覚がある。
私は、この仕事が好きだ。
そしてここが、
私がいちばん、活きる場所だ。
今年最後の空家整理の現場が終わった。
空き家から、どんどんモノが運び出されていく。
掃除機で、タンスの裏に溜まった
ヤニの混じった綿ぼこりを吸い、
ネズミのフンを箒で集めていく。
そうしているうちに、
家そのものが、深呼吸を始めるのが分かる。
この家は、解体されるという。
それでも、最後は掃き清める。
解体前の空家を、ここまで丁寧に清掃する業者は多くない。
ご依頼主から、特別な指示があるわけでもない。
けれど、これは私たちにとって大切な儀式だ。
ここにあった想い出を、
どこか天国みたいな場所へ送り出すための、儀式だ。
そんな、今年最後の儀式が終わった。
今日は、
昨年はチャレンジャーとして参加していた
鶴岡イノベーションプログラム2025の事業構想発表会に参加してきた。
発表は6チーム。
どのチームも、本当に素晴らしかった。
大感動・大興奮。
その言葉以外、見当たらない。
ビジネス構想というのは不思議なもので、
プランの完成度以上に、
「どれだけ本気か」「どんな人なのか」が、どうしても表に出てしまう。
上手く話そうとしても、
格好よく見せようとしても、
覚悟の浅さも、迷いも、逆に強さも、全部滲み出る。
だからこそ、あの7分間は嘘がつけない。
7分間。
たった7分。
けれどその裏には、5ヶ月分の時間が詰まっている。
考えて、壊して、また考えて。
否定されて、揺れて、それでも前に進んできた濃密な時間。
その積み重ねが、会場の空気を一気に変えていく。
昨年、自分がその立場だったから分かる。
あの場所に立つまでが、どれほど濃厚かということを。
今日は聞く側だった。
けれど、心はずっと前のめりだった。
「いいな」
「この感じだ」
そんな気持ちが、何度も胸の奥で湧き上がった。
挑戦する人の姿を見ていると、
胸が熱くなって、
ズドーンと前向きな気持ちに導かれる。
最後に、このプログラムの発案者である
野村総研のチーフが語った話がある。
大きな岩は、一人では動かない。
仲間が必要で、時間も力もいる。
けれど、
たった一人でも「動かす」と決める人がいなければ、
その岩は、永遠にそこにあるだけだ。
そして、
今日ここはゴールではなく、スタート地点なのだということ。
この言葉は、
私も昔、師匠から教えられた言葉でもある。
当時は、正直よく分からなかった。
けれど、年を重ね、立場が変わり、
事業や人に向き合うようになって、
ようやく腹に落ちてきた。
私自身、
昨年このプログラムで描いたプランを、
いまも温め続けている。
形は変わり、スピードもゆっくりかもしれない。
それでも、
あの時見据えた岩を、今も動かし続けている。
ビジネスは、チームで動かすものだ。
けれど、始まりはいつだって一人の覚悟だ。
今日の6チームの7分間は、
その「始まり」を、はっきりと見せてくれた。
昨日、漫才日本一を決める
M-1グランプリ が開催された。
そんな夜、親友からLINEが入った。
「M-1なんか、俺が緊張するわ〜」
思わず、少し笑った。
舞台に立つわけでもないのに緊張する。
けれど、その気持ちはよく分かる。
彼はエバース推しだった。
実は、私も息子も、やはりエバース推しだ。
決勝一回戦、エバースのネタは圧倒的だった。
空気を一気に持っていく力。
結果は一位通過。
「これはいったな」と、家の中の誰もが感じていた。
だが、M-1は最後まで分からない。
三組に絞られた最終決戦。
そこで一気に景色を変えたのが、たくろうだった。
たくろうのネタは、考えなくてもスッと入ってくる。
説明を待つ必要がない。
設定が提示された瞬間、もう頭の中に情景が浮かぶ。
気づけば笑っていて、
気づけば、その世界に入り込んでいる。
審査員の 塙宣之 さんが言っていた
「絵が見えるネタ」という言葉が、これほど腑に落ちたことはない。
その強度が、たくろうはずば抜けていた。
エバースの緊張感と構築力。
たくろうの没入感と自然さ。
どちらが上、という話ではない。
ただ、あの場面で、あの空気の中で、
一番深く刺さったのが、たくろうだった。
結果発表を見て、
息子は静かにうなずき、
私は少し悔しくて、それでも納得していた。
しばらくして、息子がぽつりと呟いた。
「M-1ほど、ライブで見たくなるものはないよね」
なるほど、と思った。
あの数分間は、編集もやり直しも効かない。
その場の空気、間、緊張、すべてが一度きりだ。
だからこそ、あれほど心を掴まれるのだろう。
この結果には、きっと誰もが納得だっただろう。
そして、わずか4分間のステージに、
どれだけの熱と時間を詰め込んできたのか。
そう想像した瞬間、胸の奥が、じんわりと熱くなった。
だから、他人事なのに緊張する。
だから、推しが負けても、拍手をしてしまう。
M-1は、笑いの大会でありながら、
本気で積み上げてきた時間を、
世代を越えて共有させてくれる夜なのだと思う。
プレゼントを贈る日といえば、誕生日かクリスマス。
だいたいそんなものだろう。
大人になると、どちらも少しずつ形骸化していくが、
子どもにとっては世界の重心がそこにある。
今から10年ほど前。
保育園に通っていた息子が、サンタさんにお願いすると言い出したのが、
ペッパーだった。
あの白くて、しゃべって、感情表現をするコミュニケーションロボット。
屈託のない笑顔で、
「サンタさんなら持ってきてくれるよ」と言う。
当時の価格は20万円弱。
さすがにそれは…と、大人の側は顔を見合わせたが、
本人にはそんな事情は一切関係ない。
そして迎えたクリスマスの朝。
玄関先に置かれていたのは、ペッパーではなく、
スーパーファミコンミニだった。
「……ペッパーくんじゃない」
その一言と一緒に、息子の表情が少しだけ曇った。
申し訳なさと、これで良かったのだろうかという迷い。
そこで、
「どれどれ」と父である私がテレビに繋いだ。
マリオカート。
ストリートファイター。
コントローラーを握った瞬間、
指が勝手に動く。
昔とった杵柄とは、よく言ったものだ。
必殺技を出しまくり、少し得意げにやってみせた。
すると、息子の反応が変わった。
「え、なにそれ!」
「もう一回やって!」
さっきまでの落胆はどこへやら、
目がキラキラに変わっていく。
「どうだ、やってみるか?」
そう声をかけた瞬間、
サンタは確かに、そこにいたのだと思う。
そのゲーム機も、数年後、
妻がそれと分からず中古屋さんに売ってしまった。
よくある話だ。
けれど、小林家の食卓では、
「あのゲーム、またやりたいね」
そんな話題が、たまにのぼる。
サンタが来なくなって久しい小林家。
今年は、そのゲーム機をもう一度買おうと思っている。
驚かせたいのは、子どもたちなのか。
それとも、
あの頃の家族の時間なのか。
プレゼントとは、
モノを渡す行為ではなく、
同じ時間を思い出せる記憶を残すことなのかもしれない。
そんなことを考えながら、
今年のクリスマスを迎えようとしている。
「偉い」という言葉には、
最初から二つの顔がある。
ひとつは、
行動に向けられる「偉い」。
続けている。
逃げずに向き合っている。
結果はともかく、ちゃんとやっている。
こういう場面で使われる「偉い」は、
人を前に進ませる言葉だ。
もうひとつは、
立場や自己評価に向けられる「偉い」。
もう分かっている。
ここまで来た。
教わる必要はない。
この「偉い」は、
少しずつ人を止めていく。
ややこしいのは、
同じ言葉なのに、
向きが変わるだけで意味が反転することだ。
人は誰でも、
自分を偉い場所に置きたくなる。
それ自体は自然なことだ。
ただ、その場所に居座り始めると、
空気が変わる。
質問が減る。
違和感が共有されなくなる。
そのうち誰も、
服の話をしなくなる。
裸の王様が生まれるときは、
たいてい静かだ。
偉さをまとおうとする行為は、
成熟ではなく、むしろ幼さに近い。
成熟している人ほど、
自分を「偉い側」には置かない。
分からない場所に立ち続ける。
「偉い」という言葉は、
使い方ひとつで、
背中も、足も止めてしまう。
だからこそ、
行動に向けて使うのがちょうどいい。
立場を守るための言葉になった瞬間、
その偉さは、
幼さに変わる。
やめることを、ネガティブに捉える人は多い。
やめた瞬間に、逃げたとか、負けたとか、そんな評価が貼られてしまう空気がある。
世の中ではよく
「打つ手は無限にある」
と言われる。
確かに、工夫すればできることはまだあるかもしれない。
やり方を変えれば、状況が動く可能性もある。
けれど、その言葉の裏で、
実は何も決断せず、ただ時間をやり過ごしている場面も少なくない。
打つ手は無限だと言いながら、
本当は手を打たず、
決断を先延ばしにしているだけ。
やめないという選択をしているようで、
実は何も選んでいない状態だ。
やめることは、簡単ではない。
これまで積み上げてきた時間、労力、関係性、期待。
それらを一度立ち止まって見つめ直す必要がある。
だから人は、
「もう少し様子を見よう」
「次はうまくいくかもしれない」
そう言って、今日を繰り返す。
それ自体が悪いわけではない。
続けることでしか見えない景色も、確かにある。
ただ、続けることが
思考停止になってしまう瞬間があるのも事実だ。
やめることは、逃げではない。
中断は、敗北ではない。
大切なのは、
やめるか、やめないか、ではない。
自分はどうなりたいのか。
そこを、しっかりと見つめているかどうかだ。
そのうえで、次の手を打つ。
その選択が「やめる」という決断であるなら、
それは大いに、実行する価値がある。
続けることにも、やめることにも、エネルギーがいる。
だからこそ、
目指す先を見据えたうえで選んだ決断には、意味がある。
やめるという行為を、
もう少し正面から評価してもいい。
それは後ろ向きな選択ではなく、
前に進むための、ひとつの確かな判断なのだから。
昨日は会社の忘年会だった。
コロナ以降、こうした集まりの参加率はだいたい半分くらいだったが、
今年は28人中25人。
ほぼ9割のスタッフが顔をそろえた。
正直、それだけで十分うれしかった。
今の時代、社内の飲み会は敬遠されがちだ。
無理に集まらなくてもいい、という空気もある。
だからこそ、これだけ集まってくれたという事実は、
それだけで意味がある気がした。
特別なことは何もしていない。
余興もなければ、長い挨拶もない。
同じものを食べて、飲んで、
普段はゆっくり話せない人と、ぽつりぽつりと言葉を交わす。
ただそれだけの時間だ。
今回は、ひとつだけ自分なりの試みをしてみた。
お酌をして回ったのである。
これまでは、ほとんどやってこなかった。
今の時代に合わないかな、とか、
かえって気を遣わせるかな、とか、
そんなことを考えて、自然と距離を取っていたのだと思う。
けれど今回は、あえてやってみた。
席を立って、グラスを持って、声をかける。
たったそれだけのことなのに、
自分の中では少し勇気が要った。
やってみて分かったのは、
お酌というのは何かを演出する行為ではなく、
ただ自分から一歩、相手の輪の中に入っていく行動なのだ、ということだった。
仕事の話はほとんどしなかった。
深い話もしない。
それでも、グラスを合わせて
「お疲れさまです」と言葉を交わすだけで、
場の空気が少しゆるむ瞬間があった。
忘年会が終わり、静かになった店を出る。
肩肘張らないなんかいい忘年会だったな。
今年はインフルエンザが流行っているらしい。
ニュースでも、ラジオでも、やたらと耳にする。
実は当社でも、ちょっと厄介な症状が出ている。
熱が下がらない。
けれど、検査をするとコロナでもインフルエンザでもない。
いわゆる「カゼ」なのかもしれないが、どうにもすっきりしない。
本人も周囲も、なんとなくモヤモヤするやつだ。
予防については、もう耳にタコができるほど言われている。
手洗い、うがい、マスク、睡眠、栄養。
どれも大事なのは分かっている。
そんな中、今朝ラジオを聴いていて、ふと気になる話があった。
それは「口腔内のケア」。
口の中の環境を整えることが、感染症の予防につながる、という話だった。
ウイルスや細菌は、鼻や口から体に入ってくる。
つまり口の中は、体の“玄関”のような場所だ。
思えば、家の片付けも玄関から、というのは鉄則だ。
いきなり奥の部屋を触っても、うまくいかない。
まずは出入り口を整える。
空気の流れをつくり、人を迎える準備をする。
口腔内も、きっと同じなのだろう。
玄関が散らかっていれば、良い空気は入りにくい。
口の中が荒れていれば、体も余計な仕事を抱え込む。
予防とは、敵を完全に遮断することではなく、
体がきちんと戦える環境を整えること。
そう考えると、少し腑に落ちた。
やることは難しくない。
寝る前に、いつもより丁寧に歯を磨く。
歯茎をいたわるように、力を入れすぎない。
うがいを一回多くする。
それだけでも、玄関はずいぶん変わるらしい。
片付けもそうだ。
劇的な変化は、たいてい地味な一歩から始まる。
大げさな対策より、地味な習慣を。
体の玄関を整える。
そんな当たり前を、もう一度大切にしたいと思った。
毎年、この 大黒様の日 が近づくと、実家の母はそわそわし始める。
びっちり子を抱いたハタハタを魚屋さんに頼み、味噌田楽に仕上げてもらう。
台所では、コトコトと納豆汁の鍋が湯気をまとい始める。
ここ庄内では、12月9日は「大黒様のお歳夜(おとしや)」 と呼ばれる。
大黒様は、農の神さま、五穀豊穣や家内安全をもたらす“働き者の神さま”。
そしてこの日は、
「大黒様が年を越し、妻を迎える」 とされる特別な夜。
そのため豆や大根、ハタハタなど縁起の良いものをお供えし、
家族も同じ料理を食べて一年の無事に感謝する。
庄内に生きる人間にとって、季節の節目を知らせる大切な行事だ。
しかし、私たち家族は、その料理ができあがるのをただ「いただくだけ」。
だからだろうか。
毎年、忘れる。
母から事前に連絡がある。
「12月9日、分かるだろ」
と、念押しのように、しかしどこか嬉しそうに。
12月になると、仕事の予定やら会合やら、どうでもいい細かいことばかり覚えているくせに、
肝心の“母の大黒様カレンダー”だけは、毎年ぽっかり抜け落ちる。
そして今年もまた、その味をいただく。
子どもの頃から食べてきた、あの変わらない味。
やっぱり、うまい。
ふと、思う。
母がいなくなったら、この味はもう食べられないのだろうか。
毎年毎年、一度はそんな想像をして、また来年には忘れてしまう。
忘れるくせに、ちゃんと覚えている。
覚えているくせに、つい忘れてしまう。
大黒様のおとしやは、そんな不思議な日だ。
母が生きてくれているという当たり前のありがたさを、そっと教えてくれる“味噌田楽の味”でもある。
そしてこれは、
家族の幸せを支え続けてきた、母のプライドでもあるのかもしれない。
捨てるって、思っている以上に勇気がいるものです。
でも、その先に“軽やかに笑っている自分”を想像できたら、
そっと一つ手放してみたくなる――
そんな気がしています。
気がつくと、デスクの上に書類が積み上がっていました。
忙しさの名残のようにも見えるけれど、
どこかで心の重さにもつながっている気がします。
判断に迷ったり、集中できなかったり、
なんとなくモヤモヤするときは、
机の上も心の中も、同じように散らかっているものですね。
片付けの現場に立つたびに感じるのは、
“捨てられない”という一点が、
人の時間や気持ちを、そっと曇らせてしまうことがあるということ。
モノが積み上がった部屋には、
そこに住む人の息づかいまで、少し窮屈にしてしまう空気があります。
そしてその景色は、
もしかしたら自分の内側にも広がっているのかもしれません。
「これは、いまの私に本当に必要?」
そう問いかけてみると、
手放すべきものが、そっと輪郭を現してきます。
いらないものを一つ手放すと、
心の中に優しい風が流れ込んでくるようです。
次に向かう道が、すっと明るく見えてくる。
そんな瞬間があります。
捨てるということは、
過去を否定することではありません。
むしろ「ありがとう」を添えて手放すことで、
いまの自分が、より自然に、より自分らしく動けるようになる。
そういう働きがあるのだと思います。
デスクだけではなく、心にもいろいろ積もります。
期待に応えようとした気負い、
気づかれないように抱えた見栄、
昔の輝きにしがみついてしまう気持ち。
それらがふっと軽くなったら、
どれだけ歩きやすくなるんだろう。
年末が近づくと、気持ちが急き立てられるようになりますが、
こんな時こそ、モノも心もひとつだけ“捨てて”みるのもいいですね。
すると、止まっていた歯車が、そっと動き出すことがあります。
未来の自分がほほえんでくれるように、
いまの自分を、軽くしてあげる。
捨てるとは、そんなやわらかな選択なのかもしれません。
歯医者さんで、数ヶ月に一度の定期検診。
いつものように歯茎の状態をチェックしていただいたのですが、今日は先生からブラッシングについて、ややキツめの注意を受けてしまいました。
前回も同じ指摘を受けていて、この二ヶ月は意識して磨いてきたつもりでしたが……どうやら「つもり」だったようで、再びブラッシングのレッスンに逆戻り。
実はこれまでも、
「この歯ブラシを使ってくださいね」
と先生にすすめられていたのですが、どこかで
“歯ブラシごときで何が変わるんだ”
という素人根性が顔を出し、首を縦には振らなかった私。
しかし今回は、先生の少々厳しめの説明に観念して、ようやくおすすめの歯ブラシを素直に購入しました。
先生曰く、市販の歯ブラシは硬すぎるのだそう。特に男性は力が入りがちで、歯茎に負担がかかるとのこと。
年齢を重ねるほど大切になる“歯と歯茎”。
習慣の小さな油断が、気づけば大きな差になる。
今日からは素人根性は脇に置き、柔らかめの歯ブラシで丁寧に磨くことにします。
さて、次回の検診では胸を張れるかどうか。
これは未来の私への宿題です。
「ありがとう」の反対は「あたりまえ」。
よく耳にする言葉だけれど、先日ラジオを聴いていて、その意味を深く感じた。
投稿者の男性が、少し苦笑いを混じえながら話していた。
「毎朝、コピー機に紙を補充するんですが、誰もやらないんですよ。新人も入ってきているのに、ずっと自分だけで……正直モヤモヤしてます」
この気持ち、よくわかる。
誰がやってもいい仕事。けれど、誰かがやらないと回らない仕事。
下っ端だから、という理由ならまだ整理がつく。
でも、そういうわけでもないのに“なぜ自分だけ?”という思いが積もってゆく。
しかも、これは給与が少ないとか待遇がどうとか、
そんな表面的な話ではない。
彼が本当に腹を立てていたのは、
「やってくれて当たり前」とされる空気だったのだ。
人間というのは可愛いもので、
たった一言の「ありがとう」があれば、同じ行動がまったく違う意味を持つ。
紙を補充するだけの行為が、
その一言で“気遣い”になり、“ヒーローみたいな働き”にもなる。
これは職場に限らず、家庭でも、地域でも、どんな場所でも同じだろう。
必要なのは “アンテナ” だ。
相手の行動を、あたりまえとしないための、ささやかな心のセンサー。
アンテナが鈍れば、日々の優しさや手間に気づけない。
でも、ちゃんと立っていれば、
誰かのひと手間に「ありがとう」が自然と生まれる。
そして不思議なもので、
こうして見ていくと、「ありがとう」と言われる行動そのものより、
その一言を口にできる人のほうが、どこか尊いように思えてくる。
行動はただの出来事。
けれど「ありがとう」と言える人は、
その裏にある気持ちや手間をきちんと受け取っている。
結局、人の価値を決めるのは、
どんな行動をしているかだけではなく、
どんな心で受け取り、どんな言葉を返せるか――
そこなのだと思う。
昨日、地域の粗大ゴミ収集に伺った。
この仕事に行くのは、もう15年ぶりくらいになる。
スタッフがインフルエンザで休むことが続き、急きょピンチヒッターとして私がトラックに乗った。
久しぶりの現場は、身体より先に気持ちが動いた。
作業服を着て荷台に立つと、若い頃の自分がふっと横に立ったような気がした。
あの頃は“ちゃんとやらなきゃ”“舐められちゃいけない”と、力みまくっていたものだ。
けれど昨日の私は、周りを気づかいながら淡々と、でも確かに楽しんでいた。
この日は18件をまわった。
なかなかハードだったが、終わってみれば心地よい達成感があった。
ただ、私の自称“晴れ男”伝説は、この日ばかりは影を潜めた。
雷は鳴るわ、土砂降りになるわで、急いでカッパを着ての作業。
雨に濡れながら「そうそう、昔もこんな日があったな」と、懐かしいような気持ちになった。
作業の合間には、お客様からコーヒーやお菓子の差し入れもいただいた。
雨で冷えた体と心に、これが本当にしみる。
「大変だねぇ」「助かるよ」と声をかけてもらうと、天気なんてどうでもよくなる。
そして、昨日いちばん驚いたのは——
伺ったすべての家の玄関が、とにかくきれいだったことだ。
靴も少なく、余計なモノがほとんど置かれていない。
一歩入った瞬間の空気がすっとしている。
ああ、きれいな家というのは、“ゴミを出す習慣”がある家なんだ、と実感した。
ため込まず、循環させる暮らし。
それは単に片づけ上手という話ではなく、生き方の姿勢そのものなのだろう。
久しぶりの現場は、原点に戻るような時間だった。