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毎年、この 大黒様の日 が近づくと、実家の母はそわそわし始める。
びっちり子を抱いたハタハタを魚屋さんに頼み、味噌田楽に仕上げてもらう。
台所では、コトコトと納豆汁の鍋が湯気をまとい始める。
ここ庄内では、12月9日は「大黒様のお歳夜(おとしや)」 と呼ばれる。
大黒様は、農の神さま、五穀豊穣や家内安全をもたらす“働き者の神さま”。
そしてこの日は、
「大黒様が年を越し、妻を迎える」 とされる特別な夜。
そのため豆や大根、ハタハタなど縁起の良いものをお供えし、
家族も同じ料理を食べて一年の無事に感謝する。
庄内に生きる人間にとって、季節の節目を知らせる大切な行事だ。
しかし、私たち家族は、その料理ができあがるのをただ「いただくだけ」。
だからだろうか。
毎年、忘れる。
母から事前に連絡がある。
「12月9日、分かるだろ」
と、念押しのように、しかしどこか嬉しそうに。
12月になると、仕事の予定やら会合やら、どうでもいい細かいことばかり覚えているくせに、
肝心の“母の大黒様カレンダー”だけは、毎年ぽっかり抜け落ちる。
そして今年もまた、その味をいただく。
子どもの頃から食べてきた、あの変わらない味。
やっぱり、うまい。
ふと、思う。
母がいなくなったら、この味はもう食べられないのだろうか。
毎年毎年、一度はそんな想像をして、また来年には忘れてしまう。
忘れるくせに、ちゃんと覚えている。
覚えているくせに、つい忘れてしまう。
大黒様のおとしやは、そんな不思議な日だ。
母が生きてくれているという当たり前のありがたさを、そっと教えてくれる“味噌田楽の味”でもある。
そしてこれは、
家族の幸せを支え続けてきた、母のプライドでもあるのかもしれない。
捨てるって、思っている以上に勇気がいるものです。
でも、その先に“軽やかに笑っている自分”を想像できたら、
そっと一つ手放してみたくなる――
そんな気がしています。
気がつくと、デスクの上に書類が積み上がっていました。
忙しさの名残のようにも見えるけれど、
どこかで心の重さにもつながっている気がします。
判断に迷ったり、集中できなかったり、
なんとなくモヤモヤするときは、
机の上も心の中も、同じように散らかっているものですね。
片付けの現場に立つたびに感じるのは、
“捨てられない”という一点が、
人の時間や気持ちを、そっと曇らせてしまうことがあるということ。
モノが積み上がった部屋には、
そこに住む人の息づかいまで、少し窮屈にしてしまう空気があります。
そしてその景色は、
もしかしたら自分の内側にも広がっているのかもしれません。
「これは、いまの私に本当に必要?」
そう問いかけてみると、
手放すべきものが、そっと輪郭を現してきます。
いらないものを一つ手放すと、
心の中に優しい風が流れ込んでくるようです。
次に向かう道が、すっと明るく見えてくる。
そんな瞬間があります。
捨てるということは、
過去を否定することではありません。
むしろ「ありがとう」を添えて手放すことで、
いまの自分が、より自然に、より自分らしく動けるようになる。
そういう働きがあるのだと思います。
デスクだけではなく、心にもいろいろ積もります。
期待に応えようとした気負い、
気づかれないように抱えた見栄、
昔の輝きにしがみついてしまう気持ち。
それらがふっと軽くなったら、
どれだけ歩きやすくなるんだろう。
年末が近づくと、気持ちが急き立てられるようになりますが、
こんな時こそ、モノも心もひとつだけ“捨てて”みるのもいいですね。
すると、止まっていた歯車が、そっと動き出すことがあります。
未来の自分がほほえんでくれるように、
いまの自分を、軽くしてあげる。
捨てるとは、そんなやわらかな選択なのかもしれません。
歯医者さんで、数ヶ月に一度の定期検診。
いつものように歯茎の状態をチェックしていただいたのですが、今日は先生からブラッシングについて、ややキツめの注意を受けてしまいました。
前回も同じ指摘を受けていて、この二ヶ月は意識して磨いてきたつもりでしたが……どうやら「つもり」だったようで、再びブラッシングのレッスンに逆戻り。
実はこれまでも、
「この歯ブラシを使ってくださいね」
と先生にすすめられていたのですが、どこかで
“歯ブラシごときで何が変わるんだ”
という素人根性が顔を出し、首を縦には振らなかった私。
しかし今回は、先生の少々厳しめの説明に観念して、ようやくおすすめの歯ブラシを素直に購入しました。
先生曰く、市販の歯ブラシは硬すぎるのだそう。特に男性は力が入りがちで、歯茎に負担がかかるとのこと。
年齢を重ねるほど大切になる“歯と歯茎”。
習慣の小さな油断が、気づけば大きな差になる。
今日からは素人根性は脇に置き、柔らかめの歯ブラシで丁寧に磨くことにします。
さて、次回の検診では胸を張れるかどうか。
これは未来の私への宿題です。
「ありがとう」の反対は「あたりまえ」。
よく耳にする言葉だけれど、先日ラジオを聴いていて、その意味を深く感じた。
投稿者の男性が、少し苦笑いを混じえながら話していた。
「毎朝、コピー機に紙を補充するんですが、誰もやらないんですよ。新人も入ってきているのに、ずっと自分だけで……正直モヤモヤしてます」
この気持ち、よくわかる。
誰がやってもいい仕事。けれど、誰かがやらないと回らない仕事。
下っ端だから、という理由ならまだ整理がつく。
でも、そういうわけでもないのに“なぜ自分だけ?”という思いが積もってゆく。
しかも、これは給与が少ないとか待遇がどうとか、
そんな表面的な話ではない。
彼が本当に腹を立てていたのは、
「やってくれて当たり前」とされる空気だったのだ。
人間というのは可愛いもので、
たった一言の「ありがとう」があれば、同じ行動がまったく違う意味を持つ。
紙を補充するだけの行為が、
その一言で“気遣い”になり、“ヒーローみたいな働き”にもなる。
これは職場に限らず、家庭でも、地域でも、どんな場所でも同じだろう。
必要なのは “アンテナ” だ。
相手の行動を、あたりまえとしないための、ささやかな心のセンサー。
アンテナが鈍れば、日々の優しさや手間に気づけない。
でも、ちゃんと立っていれば、
誰かのひと手間に「ありがとう」が自然と生まれる。
そして不思議なもので、
こうして見ていくと、「ありがとう」と言われる行動そのものより、
その一言を口にできる人のほうが、どこか尊いように思えてくる。
行動はただの出来事。
けれど「ありがとう」と言える人は、
その裏にある気持ちや手間をきちんと受け取っている。
結局、人の価値を決めるのは、
どんな行動をしているかだけではなく、
どんな心で受け取り、どんな言葉を返せるか――
そこなのだと思う。
昨日、地域の粗大ゴミ収集に伺った。
この仕事に行くのは、もう15年ぶりくらいになる。
スタッフがインフルエンザで休むことが続き、急きょピンチヒッターとして私がトラックに乗った。
久しぶりの現場は、身体より先に気持ちが動いた。
作業服を着て荷台に立つと、若い頃の自分がふっと横に立ったような気がした。
あの頃は“ちゃんとやらなきゃ”“舐められちゃいけない”と、力みまくっていたものだ。
けれど昨日の私は、周りを気づかいながら淡々と、でも確かに楽しんでいた。
この日は18件をまわった。
なかなかハードだったが、終わってみれば心地よい達成感があった。
ただ、私の自称“晴れ男”伝説は、この日ばかりは影を潜めた。
雷は鳴るわ、土砂降りになるわで、急いでカッパを着ての作業。
雨に濡れながら「そうそう、昔もこんな日があったな」と、懐かしいような気持ちになった。
作業の合間には、お客様からコーヒーやお菓子の差し入れもいただいた。
雨で冷えた体と心に、これが本当にしみる。
「大変だねぇ」「助かるよ」と声をかけてもらうと、天気なんてどうでもよくなる。
そして、昨日いちばん驚いたのは——
伺ったすべての家の玄関が、とにかくきれいだったことだ。
靴も少なく、余計なモノがほとんど置かれていない。
一歩入った瞬間の空気がすっとしている。
ああ、きれいな家というのは、“ゴミを出す習慣”がある家なんだ、と実感した。
ため込まず、循環させる暮らし。
それは単に片づけ上手という話ではなく、生き方の姿勢そのものなのだろう。
久しぶりの現場は、原点に戻るような時間だった。