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今年は、山形の川に鮭がほとんど戻ってこないという。
例年の八分の一。数字は淡々としているのに、川の景色を思い浮かべると胸がざわつく。
広島では牡蠣が歴史的不漁。
全国では、あちこちで熊の出没が相次いでいる。
気候や海水温の変化、環境の影響──説明はいくらでもあるのだろう。
けれど今年に限って、こんなにもいろいろが重なるものだろうか、と考えてしまう。
ふと思う。
このクマたちは、ナウシカで言う“オーム”のような存在なのではないか。
ただ暴れているのではなく、もっと深い場所からの“知らせ”として里に姿を見せているのかもしれない。
会社では、熱中症だの豪雨だの、季節ごとの対策に追われてきた。
その矢先に、今度は「クマ対策までお願いします」と言われる始末である。
自然相手の仕事とはいえ、ここまでバリエーションが増えると、私たちはまるで“自然警備隊”だ。
でも、こうして人が右往左往している裏で、自然は静かにサインを送り続けている。
鮭の川、海の養殖場、山の気配──それらはいつも何かを語りかけている。
暑さ、豪雨、そしてクマ。
そのどれもが「どう自然と付き合うか」を問い直してくる。
今年の異変は、もしかすると自然からの小さな声なのかもしれない。
昨日の食卓で、娘が突然「ゲームしよう!」と言い出した。
家族4人それぞれに“口癖”をこっそり設定し、本人には見えないようにおでこに貼る。
その口癖を自分で言ったら負け、という実にシンプルで、実に恐ろしいルール。
私に割り当てられたNGワードは、まさかの「そいで?(それで?)」。
まったく自覚がなかった。
いや、家族からすれば“鉄板の私の口癖”だったらしいのだが、本人にとっては青天の霹靂である。
そしてゲーム開始。
わずか10秒。
「そいで?」
……自然体すぎるほど自然体に口から出てしまい、即アウト。
家族は大笑い。私は苦笑い。
でも、この瞬間ふと気づいた。
自分のクセって、本当に自分では見えないものなんだな、と。
思えば、妻からは普段から「その言い方、誤解されるよ」とか、「その口調はあまり良くないよ」と、丁寧に指摘されている。
自分では普通のつもりでも、聞く側にとっては全然違って聞こえていることがある。
今回の“そいで?事件”も、要はその延長線上なのかもしれない。
そんなふうに、自分が気づけない細かなクセや振る舞いを、率直に伝えてくれる人がいるというのは、本当にありがたいことだ。
ましてや、それを遠慮せずに伝えてくれるのが家族だというのは、もっとありがたい。
家族って、一番近くにある“鏡”みたいな存在なのだと、あらためて感じた夜だった。
今日は、娘がお世話になるかもしれない高校の学校説明会に参加してきた。
特に心に残ったのが、「レガッタとラフティング」で語られた社会の変化だ。
これまでの社会はレガッタのように、後ろを向いて指示を受け、その通りに漕げばよかった。
決められたことをきちんとやる——それが求められた時代である。
しかし、これからはラフティングの時代だという。
前を見て流れを判断し、声を掛け合って、自分からパドルを差し込まなければ船は進まない。
指示を待っているだけでは、激流に飲まれてしまう時代だ。
子どもたちが進むのは、この“行動の時代”である。
企業も大人も、レガッタの価値観ではもう通用しない。
流れに合わせて自ら動く者だけが次のステージに進み、そうでなければ消耗していく。
流れが速すぎるのだ。
この変化に合わせて、自ら判断し、挑んでいける企業や人だけが残る。
対応できなければ、すり減り、姿を消してしまう。
世の中の「光」と「影」の濃淡が、いっそうくっきりと浮かび上がる時代である。
だからこそ、前を向いて漕ぐしかない。そうビジョンがより一層大切なのだ。そう先生は言いたかったのだろう。
こんな話を聞きながら、中学生にどこまで本筋が伝わったかは正直わからない。
けれど、私は素直に「ここなら娘を預けてもいいな」と感じていた。
今日は財務戦略のセミナーに参加した。
数字の話もさることながら、後半にあった「銀行との正しいお付き合いの仕方」が、なんとも胸に残った。
会社の経営を左右する大事なテーマなのに、これには決まった虎の巻がない。
私はこれまで、先輩経営者の背中を追い、そして先代である父の振る舞いから学んできた。
その経験則の寄せ集めで、なんとかここまでやってきたような気がする。
ところが今日の講義を聞きながら、ふと安心した瞬間があった。
あの頃教えてもらった感覚は、どうやらそう間違ってはいなかったらしい。
経験則の影には、ちゃんとした理屈と、銀行側の立場が存在していたのだと知り、少し肩の力が抜けた。
ただ、ここで具体的な内容を書くことは控えておこうと思う。
銀行とのお付き合いは、会社の状況や規模、経営者の覚悟によってまるで違う。
ひとつの正解を書いたところで、それが誰かの足を引っ張る可能性だってある。
だからこそ、自分の胸の内にそっとしまっておくほうがいいのかもしれない。
ひとつ確かだと思ったのは、銀行というのは「晴れの日に傘を貸す商売」だということ。
それは良い悪いではなく、当たり前の姿だ。
だからこちらも、誠意を持って向き合い、相手を知ろうとすることが欠かせない。
どんな未来を描いていて、どこに向かおうとしているのか。
数字と姿勢で示し、正しく理解してもらう努力を続けるしかない。
結局のところ、経営とは“誠意と理解”の積み重ねなのだと思う。
父から受け取った教えも、今日の学びも、すべてそこに行き着く。
そんなことを胸の中で反芻しながら、ゆっくりと帰路についた。
本日はお隣の酒田市で遺品整理の現場作業。
久しぶりに一日びっちりとスタッフと一緒に汗を流しました。
「この寒いのに汗?」と思われるかもしれませんが、外仕事は防寒具が必須。
動き回れば、たちまち体があたたまり、汗ばんでくるのです。
今日は二階に取り付けられたエアコンの取り外しがあり、久々に工具を握りました。
昔取った杵柄というやつで、電気工事士の資格が、こういうときに生きてくる。
現場に出ると、不思議と体が覚えているもので、手が自然に動きます。
遺品整理の現場では、さまざまな“モノ”との出会いがあります。
今日、ふと目に留まったのは、化粧箱にずっとしまわれていた民芸品のお人形。
三歳くらいの子どもをかたどった、素朴であたたかい表情のお人形でした。
おそらく四十年ほど、そのまま箱の中で保管されていたのだろうと思います。
モノは言葉を話しません。
けれど、確かに時間と気持ちを宿しているように思います。
役目を終えたのか、まだ果たせていないのか。
ただ、そこに“在り続ける”ことにも、意味があるのかもしれません。
ふと、「外の世界を見せてあげたいな」と思いました。
お節介かもしれませんが、箱からそっと出して、窓際に置いてみました。
冬の光を浴びながら、外をじっと眺めている姿が、とても静かで、やさしかった。
慰めになったのかどうかは、わかりません。
けれど、その姿を見ていたら、
「人もモノも、誰かに必要とされてこそ、息を吹き返すのだな」と、そんなことを思いました。
遺品整理は、モノを捨てる仕事ではない。
そこにあった暮らしに手を添え、次の居場所へとつなぐ仕事です。
今日もひとつの家から、季節がひとつ流れていきました。