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人との出会いというのは、本当に不思議だ。
数年に一度しか行かないような場所で、なぜかバッタリ会う。
少し立ち話をしただけなのに妙に盛り上がって、そのまま次につながっていくことがある。
冷静に考えれば、ほとんどゼロみたいな確率だ。
あの日、少し家を出る時間が違っていたら。
別の道を通っていたら。
「今日はやめておこう」と思っていたら。
きっと会わなかった。
でも、そういう偶然ほど、人生を静かに動かしていく。
ただ、その出会いが良かったのか悪かったのかは、その時には分からない。
いや、もしかすると最後の最後まで分からないのかもしれない。
苦しかった出会いが、何年も経ってから自分を支えていたと気づくこともある。
逆に、運命のように思えた出会いが、自分を遠回りさせていたと知ることもある。
結局、それを決めるのは出来事そのものではなく、自分の心なのだろう。
けれど、その心をいつもフラットに保つというのは、人間にはかなり難しい。
嬉しい日は舞い上がるし、嫌なことがあればすぐに色眼鏡で見てしまう。
期待もするし、落胆もする。
「こころ」はコロコロと転がる。
昨日まで平気だったことに傷ついたり、どうでもよかった一言に救われたりする。
夕方の風景ひとつで気持ちが変わる日もある。
だから人は、同じ出来事でも、その時々でまったく違う意味を与えてしまうのだろう。
このこころの波がたとえば30年後なんかに大きなうねりになる。
テストが終わって、ようやくゆっくりしている様子だった。
息子はレコードをかけながら、漫画を読んでいた。
流れていたのは、ビル・エヴァンスのライブ盤。
私も隣で一緒に聴いた。
特別な会話があったわけじゃない。
でも、とてもいい時間だった。
昨年、息子の誕生日にレコードをプレゼントした。
その後、プレーヤーとスピーカーも揃えた。
息子と音楽を一緒に聴きたかったからだ。
あれから一年。
息子が初めて自分で買ったレコードが、ビル・エヴァンスのライブ盤だった。
いつもはイヤホンで、一人で音楽を聴いている。
それはそれで今の時代らしい聴き方なのだと思う。
でも、レコードには少し違う空気がある。
針を落とすと、「これちょっと聴いてみて」と、誰かと共有したくなる何かがあるのだろう。
便利さだけならスマホの方が圧倒的だ。
けれど、盤を取り出して、針を落として、スピーカーから音を流す。
その少し面倒な時間の中に、人と同じ空気を共有する余白みたいなものがある気がする。
ビル・エヴァンスを聴きながら漫画を読む息子を眺めていたら、
「こういう時間が欲しかったんだな」と思った。
最近、子供の頃のことをよく思い出す。
私が育った街には、よく移動販売が来ていた。
八百屋や焼き鳥屋、北海道直送の牛乳屋。今思えば、小さな商店街が、そのまま住宅街を巡回しているような時代だった。
そして彼らは決まって音楽を鳴らしながらやって来る。
遠くから聞こえてくるメロディーで、「あ、来た」と分かるのだ。
中でも強烈に覚えているのが、水前寺清子 の「三百六十五歩のマーチ」。
暗くなり始める頃、遠くからあの軽快なリズムが聞こえてくる。
“ワンツー、ワンツー”
すると子供だった私は、なぜかそわそわした。
窓の外を見たり、外へ飛び出したり、「今日は何を売っているんだろう」と胸を躍らせたり。
結局、その車が何屋さんだったのかはよく覚えていない。
けれど、「ワンツー・ワンツー」のリズムだけは、今でも身体が覚えている。
今思えば、あれは物を売りに来ていたというより、“夜の入り口”を知らせに来ていたような気もする。
夕焼けが少しずつ青に変わり、家々の明かりが灯り始める頃。
どこか遠くで犬が吠えて、台所からは夕飯の匂いが漂う。そんな街の空気の中を、「三百六十五歩のマーチ」が妙に陽気に流れていた。
今は、しんと静かな街だ。
あの頃のように、音楽を鳴らしながら走る移動販売車もほとんど見なくなった。
窓を開ければ誰かの気配がした街は、ずいぶん静かになった。
便利にはなったのだと思う。
欲しい物はすぐ届くし、わざわざ外へ出なくても暮らしていける。
だけれど、あの「ワンツー・ワンツー」と聞こえてきた夕暮れの高揚感は、もうどこにもない。
子供たちの声。
夕飯の匂い。
西日の色。
家へ帰る時間の空気。
一番戻りたい時代とは、案外ああいう、何でもない夕暮れだったりするのかもしれない。
四畳半というのは、本来「自分だけの部屋」だったはずだ。
好きな音楽を流したり、本を読んだり、ちょっと一人になったり。そんな場所だったのだけれど、最近そこが妙に賑やかになってきた。
息子が新しいテニスラケットを買ってきて、私の部屋に置いた。さらにベースまで持ち込み、アンプにつないで弾き始める。
妻は妻で、自分の愛機である掃除機を置く。
娘は娘でアップライトピアノを置き、やはり弾く。
気づけば、もはや私の部屋ではない。
ただ、不思議と嫌ではない。
むしろ、みんなそれぞれ、自分の好きなものや大切なものを自然とここへ持ってくる。その感じが少し嬉しいのだ。
息子も、完全に一人の部屋で弾くより、誰かの気配がある場所の方がいいのかもしれない。娘もそう。妻の掃除機も、たぶん「ここなら置ける」という安心感なのだろう。
四畳半は狭くなった。
でもその分、家族との距離は少し近くなった気がしている。
お昼は、妻の作った弁当を食べている。
これが本当にありがたい。
外回りや現場仕事をしていると、「昼に何を食べるか」というのは意外と大きな問題だ。コンビニに寄るのか、どこかで食べるのか、混んでいる店に並ぶのか。忙しい日は、その選択すら面倒になる。
たまには「今日は何を食べようかな」と楽しみに働くのも悪くない。ラーメンでも定食でも、その土地の空気を感じる昼飯には、ちょっとした贅沢がある。
だけれど、毎日となると話は別だ。
弁当というのは、ただ食事を運んでいるだけではない。朝の時間を使い、こちらの一日を想像しながら用意してくれている。蓋を開けると、なんだか生活そのものが詰まっている気がする。
妻にとっては子供達の弁当を作るついでなのかもしれないが、毎日ちゃんと自分の分もあるというのは、やはりありがたいものだ。
しかも不思議なもので、弁当だと食べ過ぎない。午後も重たくならず、仕事に戻れる。結局、一番身体に合っているのかもしれない。
若い頃は、こういうありがたさが分からなかった。
毎日を静かに支えてくれているものほど、本当は贅沢なのだと。