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これは、ある著名なコンサルタントが講演後のオフ会でポツリと言った言葉だ。
「どんな時代でも業績がいい会社は、スタッフ同士の仲がいい会社なんですよ。」
力んだ講演でもなく、資料に基づく説明でもない。
ただの雑談の中から自然に出てきた一言だからこそ、妙に胸に残った。
ただ、その“仲がいい”という言葉。
人によって意味も解釈もさまざまだと思う。
ここから先は、完全に私の主観だ。
仲が良いとは、心の根っこに“ありがとう”があること。
ありがとう、助かったよ。
ありがとう、気づいてくれて。
ありがとう、今日も来てくれて。
この「ありがとう」がある職場は、不思議と空気が軽い。
ミスしても責めるより先に、どうしたら防げるかを一緒に考える。
情報が流れ、変化に強い。
結局、感謝のある環境は改善が速いのだ。
でも──。
本当に大切なのは、ここからだと思っている。
経営者自身の心の根っこに、大きな「ありがとう」があること。
これが最も大切だ。
ありがとう、この会社に来てくれて。
ありがとう、今日も働いてくれて。
ありがとう、私に力を貸してくれて。
ありがとう、ついてきてくれて。
この“経営者のありがとう”が揺るがない会社は、強い。
なぜ強いかというと、スタッフが感じる安心感が違う。
人は、感謝してくれる人のために力を出す。
組織は、トップの心の状態を正直に映す。
経営者の心の奥に感謝があるかないか──
それだけで会社の空気は変わり、業績すら変わる。
制度や仕組みももちろん大事だ。
けれど、それを動かす“心”が摩耗していたら、どんな立派な計画も回らない。
だから私は今日も、スタッフの顔を思い浮かべながら思う。
ありがとう。
あなたたちがいるから、この会社は前に進んでいる。
そしてその感謝の気持ちこそが、
経営のいちばん深い“根っこ”なのだと実感している。
所作とは、相手への信頼を形で示すこと──
老舗旅館の女将さんは、そう教えてくれた。
叩き込まれたのは、その所作。
所作とは「相手に“影”をつくらないことなのよ」
と女将さんは言う。
しかし、時代は変わった。
宿帳はフロント一括。
料理は大広間のテーブル席。
お茶出しも不要になった。
すべては合理化の改革だ。
変わらなければ生き残れない。
けれど、戸惑ったのは所作を誇りにしてきた熟練スタッフだった。
静かに部屋へ入り、影を作らずに動く──
そんな技が、大広間では活かしづらい。
でも、人が大事にしてきたものが霞んでしまう瞬間もある。
話の最後に、女将さんは静かに言った。
「いろんな時代を乗り越えて、人を育ててきて、ようやく分かったのは。
人を育てるってね、一緒に歩んでいくことなのよ」
時代やスタッフに対して、「一緒に歩んで行くこと」これこそが女将が辿り着いた境地なのだ。
先日、ラジオで興味深い企画を聴いた。
「全盲の方と一緒に美術館を鑑賞する」というものだ。
この鑑賞には一つルールがあるという。
“作品のタイトルや注釈を見ずに、感じたままを言葉にする”。
知識ではなく、まっさらな感覚だけで絵と向き合う。
その姿勢が、なんだか新鮮だった。
説明を聞いているうちに、私はふと「これは本を読むのと同じだな」と思った。
本に載っているのは文字だけ。その文字を頼りに、頭の中で景色や人物の息遣いを自然と描き出していく。
つまり“意味付けされた説明”ではなく、“自分の解釈”が世界を作っていく。
ちょうどこの前、ある資料を読んでいたら、
小中高生の半数以上が一日の読書時間ゼロと答えているという調査が載っていた。
今のスマホ時代を象徴する言葉として「Brain Rot(脳腐れ)」という表現まで出てくるほどだ。
ショート動画は、確かに気楽で面白い。
けれど、あれは“見せられる世界”。
こちらの想像力をほとんど使わない。だから気づくと、時間だけがスルッと消えている。
一方で、本を読むという行為は、
あの全盲の美術鑑賞のルールのように、
自分の言葉で世界を立ち上げる時間だ。
作者が示すのは最小限のヒントだけ。
そこからどう感じ、どう色づけていくかは読み手次第。
同じ一冊でも、人によってまったく違う物語になるのはそのためだ。
忙しい毎日の中でも、寝る前の10分だけ本を開いてみる。
すると頭の中に静かな世界が育ち始め、
スマホに“使われる”日常から少しだけ距離を置ける。
読書の形は紙でも電子でも、オーディオブックでもいい。
大切なのは、感じるための余白がそこにあるかどうか。
その小さな余白が、これからの主体性をそっと育ててくれるのだと思う。
今日は冬タイヤへの交換を行った。
この季節になると、物置から除雪スコップを出し、タイヤを並べ、軍手をはめる。そのひとつひとつの動作が、冬の訪れを静かに知らせてくれる。
そして必ず思い出すのが、父からタイヤ交換を教わった日のことだ。
免許を取り、初めて自分の車を持った十代の頃。父はとにかく“タイヤだけは絶対に外れるな”と強く念を押し、半ば脅しのように力の入れ方を教えた。
「いいか、レンチは手じゃなくて足で踏め。全体重をかけろ。命が乗ってるんだ。」
父にしてみれば、これが最も確実で安全なやり方だったのだろう。
ただ、初めて一人でタイヤ交換をしたあの日、私は父の言いつけを忠実に守りすぎた。全体重をかけて渾身の力で踏み込んだ結果、ボルトは――見事に千切れた。
後になって知ったが、これは典型的な“締めすぎ”。本来は、トルクレンチで指定のトルクに合わせて締めるという、現代では当たり前の手順がある。力任せではなく、必要なだけの力を、適切なところで止める。それが今のやり方だ。
けれど、タイヤ交換をするたびに思う。あの父の教えは、ただの力技ではなかったのではないかと。
父の生き方そのものだったのだ。
壊れるまで働き、限界まで踏ん張り、家族を支えるために“締めすぎるほど”の力で生きてきた世代。
一方で私は、規定値を守り、無理をしすぎず、壊れる前に止める方法を選ぶ時代に生きている。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、ボルトを締める足の感触から、ふと父の背中を思い出す。
全力しか知らなかった父の生き方と、適力を探す今の自分が、冬の気配の中で少しだけ重なり合う。
今年も無事に交換完了。
冬道の備えを整えながら、父の生き方の温かさと重さを、そっと噛み締めた一日だった。
変わるって、本当に難しい。
頭では分かっているのに、どう変わればいいのかとなると、とたんに視界が曇る。
けれど、今のままでは沈んでしまう──そんな瀬戸際に立っている自分も確かにいる。
結局のところ、どんな自分になりたいのか。
そのゴールを描かない限り、前に進む力は湧いてこないのだと思う。
そして今の自分は最善を尽くしたか、と胸に問いかけるたび、
静かに次の一歩を促されているような気がする。
策をめぐらせ、駆け引きで道を切り開く人たちもいる。
しかし私は、真正面からぶつかって、転んで、また立ち上がる。
不器用だけど、それしかできない。したくもない。
ただ、その時に胸に湧く「爽快さ」こそが、私の判断基準なんだと気づく。
迷っているということは、生きているということ。
揺れながらも進もうとしている証だ。
そして思う。
正解はないのだけれど、生きているということが、もう正解なのだと。