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  1. 環境管理センターブログ
 

環境管理センターブログ

2026/05/31
918/1000 ニヤッとする瞬間   

朝から息子が落ち着かない様子だ。今日は英検準一級の試験日である。

これまで、キッチンタイマーで時間を測りながら机に向かう姿を何度も見てきた。問題集を開き、単語を覚え、英作文を書いては見直す。その積み重ねの先にあるのが今日なのだろう。

私は試験会場までの送迎を頼まれた。

車に乗り込んだ息子は、何やらびっしり書き込まれたノートを見返している。聞けば英作文についてまとめたものだという。

英作文にはポイントがあるらしい。

①主張が明確であること

②理由が二つあること

③最後に主張を別の言い方で結論づけること

なるほどと思った。

特に私が気に入ったのは「理由が二つあること」だった。

一つだけではなく、もう一つ。

そういえば私は映画や小説でも、そういう仕掛けが好きだ。

何気ないセリフに別の意味が隠れていたり、登場人物の行動に実はもう一つの意図があったりする。初めて見た時には気づかないのだが、後になって「ああ、そういうことだったのか」と分かった瞬間、思わずニヤッとしてしまう。

人の言葉も同じかもしれない。

厳しい言葉の奥に優しさがあったり、ぶっきらぼうな態度の裏に照れくささがあったりする。

物事には、一つだけではなく、もう一つの理由が隠れていることがある。

 

理由が一つしか見えない時は、もう一つ探してみる。

そんな見方ができると、世の中は少しだけ面白くなるのかもしれない。


服装は自由なのに、なぜか制服で試験会場へ向かった息子。

理由は分からない。

けれど、その姿を見て「ああ、本気なんだな」と思った。

英作文の理由は二つ必要らしいが、この制服の理由は一つで十分だったような気がする。

2026/05/29
916/1000 新しい看板を待つ町   

今日は月末の集金日だった。

町を回りながら、改めて周囲を見渡してみる。

 

すると、いつの間にか看板が外されている店を何軒か見かけた。

 

「あれ、ここもか。」

 

ついそんな言葉が口をつく。

 

営業している時は当たり前の風景だったのに、看板がなくなると急にその存在の大きさに気付かされる。不思議なものだ。

 

少し寂しい気持ちになった。

 

しかし、その一方で、新しい店の開店準備をしている場所もあった。まだ看板は付いていないが、内装工事が進み、人の出入りがある。

 

閉じる店があれば、始まる店もある。

 

当たり前のことなのだが、その光景を見ていると町そのものが生き物のように感じられた。

 

生き物は終わることが最初からプログラムされているという。

 

もし終わりがなければ、新しい命も生まれず、進化も起きなかっただろう。

 

終わるからこそ、次が生まれる。

 

町もまた同じなのかもしれない。

 

昔、経営の勉強をした時に教わった言葉がある。

 

「企業の目的は顧客の創造である」

 

ドラッカーの言葉だ。

 

利益を上げることでも、会社を大きくすることでもない。社会に新しい価値を生み出し、その価値を必要とする人を増やしていくこと。

 

どんなに歴史のある会社でも、それができなくなれば役割を終える。

 

逆に、新しく生まれる店は、まだ見ぬ顧客との出会いを信じて挑戦を始める。

 

看板を下ろした店も、看板を掲げようとしている店も、その姿は違うようでいて、実は同じ流れの中にあるのだろう。

 

終わりと始まり。

 

衰退と進化。

 

それは対立するものではなく、隣り合わせに存在している。

 

月末の集金日。

 

車を走らせながら見た町の風景が、妙に心に残った。

 

そして私たちの会社もまた、新しい看板を掲げ続けられる存在でありたいと思った。


2026/05/27
914/1000 弁当箱の外にある楽しみ   

お昼はいつも妻の作った弁当だ。

以前も書いたが、昼に何を食べようか悩まなくていいのは本当にありがたい。朝、何も考えずに弁当の入ったミニトートを持って出勤できる。

しかし、妻の弁当には少し変わった特徴がある。

それは「オプション」が付いていることだ。

バナナの日もあれば、クッキーの日もある。カルシウムウエハースやナッツが入っていることもある。まるで期間限定サービスのように、何かしらのおまけが忍ばせてあるのだ。

そして今日。

ミニトートから妙に長いものが飛び出していた。

「なんだこれは……」

恐る恐る引き抜いてみると、出てきたのはチョコレート味のチョロスだった。

しかも一本丸ごと。

どこで買ってきたのかは知らないが、とにかく長い。

昼休みの事務所で、中年男性が一本のチョロスを持っている姿はなかなかの破壊力である。人目をはばかりながら食べることになった。

だが不思議なもので、こういう予想外のものが入っていると少し嬉しい。

弁当そのものもありがたいのだが、その日のオプションを見るのも密かな楽しみになっている。

明日は何が入っているのだろう。

そんなことを思いながら仕事をしている自分がいる。

弁当箱の外にも、ちょっとした楽しみは詰まっているものだ。

2026/05/25
912/1000 いつでも誰とでも繋がれる時代の孤独   

今朝の新聞に、「多死社会 “無縁” の最期」という特集記事が載っていた。

孤独死。

無縁遺骨。

身寄りのない高齢者。

 

そんな言葉が並んでいた。

 

ただ、「孤独死」という言葉を見ながら、少し考えてしまった。

 

今は、いつでも誰とでも繋がれる時代だ。

 

スマホを開けば、世界中の人と会話できる。

SNSを見れば、誰かの日常が流れてくる。

動画を開けば、無音になることもない。

 

なのに、人は孤独になる。

 

いや、もしかすると、繋がりすぎているからこそ、孤独なのかもしれない。

 

昔は、もっと不便だった。

電話も気軽ではない。

会いに行かなければ顔も見れない。

それでも、人は自然と誰かの家へ行き、縁側で話をし、座布団を出し合っていた。

 

家には来客用の布団があり、泊まっていく前提の暮らしがあった。

 

今は違う。

 

誰にも会わなくても生きていける。

食事も届く。

仕事もできる。

買い物も済む。

 

便利になったはずなのに、人との接点だけが、少しずつ薄くなっている。

 

家財整理の現場へ行くと、その変化を感じることがある。

 

立派な仏壇。

客間。

大量の座布団。

押し入れいっぱいの来客用布団。

 

それらは、“誰かが来る暮らし”の名残だ。

 

けれど最近の家には、そもそも客間がない。

来客用の座布団もない。

ましてや布団もない。

 

合理的で、効率的で、片付いている。

 

だけれど、人間関係までミニマルになっているようにも見える。

 

「無縁」という言葉は、単に一人で亡くなることではないのかもしれない。

 

誰とも関わらずに生きること。

あるいは、誰とでも繋がれるのに、本当には繋がれないこと。

 

その静かな違和感のことを、時代は「孤独」と呼んでいるのかもしれない。


2026/05/23
910/1000 こころはコロコロと  

人との出会いというのは、本当に不思議だ。

数年に一度しか行かないような場所で、なぜかバッタリ会う。

少し立ち話をしただけなのに妙に盛り上がって、そのまま次につながっていくことがある。

 

冷静に考えれば、ほとんどゼロみたいな確率だ。

あの日、少し家を出る時間が違っていたら。

別の道を通っていたら。

「今日はやめておこう」と思っていたら。

きっと会わなかった。

 

でも、そういう偶然ほど、人生を静かに動かしていく。

 

ただ、その出会いが良かったのか悪かったのかは、その時には分からない。

いや、もしかすると最後の最後まで分からないのかもしれない。

 

苦しかった出会いが、何年も経ってから自分を支えていたと気づくこともある。

逆に、運命のように思えた出会いが、自分を遠回りさせていたと知ることもある。

 

結局、それを決めるのは出来事そのものではなく、自分の心なのだろう。

 

けれど、その心をいつもフラットに保つというのは、人間にはかなり難しい。

嬉しい日は舞い上がるし、嫌なことがあればすぐに色眼鏡で見てしまう。

期待もするし、落胆もする。

 

「こころ」はコロコロと転がる。

 

昨日まで平気だったことに傷ついたり、どうでもよかった一言に救われたりする。

夕方の風景ひとつで気持ちが変わる日もある。

 

だから人は、同じ出来事でも、その時々でまったく違う意味を与えてしまうのだろう。

 

このこころの波がたとえば30年後なんかに大きなうねりになる。


2026/05/21
908/1000 息子が選んだレコード   

テストが終わって、ようやくゆっくりしている様子だった。

息子はレコードをかけながら、漫画を読んでいた。

流れていたのは、ビル・エヴァンスのライブ盤。

 

私も隣で一緒に聴いた。

特別な会話があったわけじゃない。

でも、とてもいい時間だった。

 

昨年、息子の誕生日にレコードをプレゼントした。

その後、プレーヤーとスピーカーも揃えた。

息子と音楽を一緒に聴きたかったからだ。

 

あれから一年。

息子が初めて自分で買ったレコードが、ビル・エヴァンスのライブ盤だった。

 

いつもはイヤホンで、一人で音楽を聴いている。

それはそれで今の時代らしい聴き方なのだと思う。

 

でも、レコードには少し違う空気がある。

 

針を落とすと、「これちょっと聴いてみて」と、誰かと共有したくなる何かがあるのだろう。

 

便利さだけならスマホの方が圧倒的だ。

けれど、盤を取り出して、針を落として、スピーカーから音を流す。

その少し面倒な時間の中に、人と同じ空気を共有する余白みたいなものがある気がする。

 

ビル・エヴァンスを聴きながら漫画を読む息子を眺めていたら、

「こういう時間が欲しかったんだな」と思った。

2026/05/19
906/1000 「ワンツー・ワンツー」が聞こえていた頃   

最近、子供の頃のことをよく思い出す。

私が育った街には、よく移動販売が来ていた。

八百屋や焼き鳥屋、北海道直送の牛乳屋。今思えば、小さな商店街が、そのまま住宅街を巡回しているような時代だった。

そして彼らは決まって音楽を鳴らしながらやって来る。

遠くから聞こえてくるメロディーで、「あ、来た」と分かるのだ。

中でも強烈に覚えているのが、水前寺清子 の「三百六十五歩のマーチ」。

暗くなり始める頃、遠くからあの軽快なリズムが聞こえてくる。

“ワンツー、ワンツー”

すると子供だった私は、なぜかそわそわした。

窓の外を見たり、外へ飛び出したり、「今日は何を売っているんだろう」と胸を躍らせたり。

結局、その車が何屋さんだったのかはよく覚えていない。

けれど、「ワンツー・ワンツー」のリズムだけは、今でも身体が覚えている。

今思えば、あれは物を売りに来ていたというより、“夜の入り口”を知らせに来ていたような気もする。

夕焼けが少しずつ青に変わり、家々の明かりが灯り始める頃。

どこか遠くで犬が吠えて、台所からは夕飯の匂いが漂う。そんな街の空気の中を、「三百六十五歩のマーチ」が妙に陽気に流れていた。

今は、しんと静かな街だ。

あの頃のように、音楽を鳴らしながら走る移動販売車もほとんど見なくなった。

窓を開ければ誰かの気配がした街は、ずいぶん静かになった。

便利にはなったのだと思う。

欲しい物はすぐ届くし、わざわざ外へ出なくても暮らしていける。

だけれど、あの「ワンツー・ワンツー」と聞こえてきた夕暮れの高揚感は、もうどこにもない。

子供たちの声。

夕飯の匂い。

西日の色。

家へ帰る時間の空気。

一番戻りたい時代とは、案外ああいう、何でもない夕暮れだったりするのかもしれない。

2026/05/17
904/1000 四畳半、占領される   

四畳半というのは、本来「自分だけの部屋」だったはずだ。

好きな音楽を流したり、本を読んだり、ちょっと一人になったり。そんな場所だったのだけれど、最近そこが妙に賑やかになってきた。

 

息子が新しいテニスラケットを買ってきて、私の部屋に置いた。さらにベースまで持ち込み、アンプにつないで弾き始める。

 

妻は妻で、自分の愛機である掃除機を置く。

 

娘は娘でアップライトピアノを置き、やはり弾く。

 

気づけば、もはや私の部屋ではない。

 

 

ただ、不思議と嫌ではない。

 

むしろ、みんなそれぞれ、自分の好きなものや大切なものを自然とここへ持ってくる。その感じが少し嬉しいのだ。

 

息子も、完全に一人の部屋で弾くより、誰かの気配がある場所の方がいいのかもしれない。娘もそう。妻の掃除機も、たぶん「ここなら置ける」という安心感なのだろう。

 

四畳半は狭くなった。

 

でもその分、家族との距離は少し近くなった気がしている。


2026/05/15
902/1000 弁当という、静かな贅沢   

お昼は、妻の作った弁当を食べている。

これが本当にありがたい。

外回りや現場仕事をしていると、「昼に何を食べるか」というのは意外と大きな問題だ。コンビニに寄るのか、どこかで食べるのか、混んでいる店に並ぶのか。忙しい日は、その選択すら面倒になる。

 

たまには「今日は何を食べようかな」と楽しみに働くのも悪くない。ラーメンでも定食でも、その土地の空気を感じる昼飯には、ちょっとした贅沢がある。

 

だけれど、毎日となると話は別だ。

 

弁当というのは、ただ食事を運んでいるだけではない。朝の時間を使い、こちらの一日を想像しながら用意してくれている。蓋を開けると、なんだか生活そのものが詰まっている気がする。

 

妻にとっては子供達の弁当を作るついでなのかもしれないが、毎日ちゃんと自分の分もあるというのは、やはりありがたいものだ。

 

しかも不思議なもので、弁当だと食べ過ぎない。午後も重たくならず、仕事に戻れる。結局、一番身体に合っているのかもしれない。

 

若い頃は、こういうありがたさが分からなかった。

毎日を静かに支えてくれているものほど、本当は贅沢なのだと。


2026/05/13
900/1000 組織の中心という話   

最近、「存在者一中心の原理」という言葉に出会った。

どんな組織や共同体にも、“中心”は一つであるという考え方だ。

 

会社で言えば、

 

社長

部長

課長

係長

一般社員

 

それぞれに役割があり、それぞれに「中心」がある。

 

一般社員にとっての中心は直属の上司。

相談や報告も、その流れを通して行われることで、組織は安定して機能する。

 

しかし現代は、とにかくスピードが求められる。

 

「早い方がいい」

「直接聞いた方が効率的」

 

そうやって、いつの間にか“飛び越え”が増えていく。

 

もちろん悪気はない。

むしろ良かれと思っての行動だ。

 

しかし、それが続くと、少しずつ組織の足腰が弱くなっていく。

 

中間にいる人が育たない。

役割が曖昧になる。

責任の所在もぼやけていく。

 

これは会社だけの話ではないと思う。

 

家庭でも、地域でも、人が集まる場所には必ず“中心”がある。

 

子供から見れば親。

親から見れば、そのまた親。

 

縦のつながりがあるから、人は安心して立つことができる。

 

最近は「横のつながり」が重視される時代だけれど、実は縦のつながりも同じくらい大切なのだと感じる。

 

縦があるから、横も安定する。

 

根がしっかりしている木ほど、枝葉が自由に広がるのと少し似ている。

 

強い組織というのは、声が大きい組織ではなく、中心が定まっている組織なのかもしれない。


2026/05/11
898/1000 前代未聞の不法投棄パトロール   

本日は、不法投棄防止の合同パトロールに参加してきた。

庄内地域の市町村、山形県、山形県警察、そして私たち廃棄物処分業者が連携して行っている活動だ。

私はもう20年以上、このパトロールに参加している。

その中でも今日は、少し印象に残る一日だった。

なんと本日は、鶴岡市の市長をはじめ、多くの議員の方々も現地に加わり、一緒にパトロールを実施したのだ。

私は市長とは別の地域を担当していたため、残念ながら同席することは叶わなかったのだが、市長自らが、乗用車のタイヤ68本が不法投棄されている現場を確認されたと聞いた。

不法投棄という問題は、単に「ゴミが落ちている」という話ではない。

地域の景観であり、自然環境であり、そこに暮らす人の意識そのものに関わっている。

数字だけ見れば「68本」だが、実際に現場に立つと、その異様さに驚かされる。

誰かが捨て、誰かが困り、最後は誰かが片づける。

その「最後の誰か」になってきたのが、私たちの業界でもある。

もちろん、現実にはもっと酷い現場もある。

しかし今日は、不法投棄の現場を見る一方で、「地域全体で守っていこう」という空気も感じた。

行政、警察、議員、そして現場の事業者。

立場は違っても、「この風景を守りたい」という思いは共通しているのだと思う。

庄内には、美しい海があり、山があり、田園風景がある。

だからこそ、それを守る活動もまた、地域に必要な仕事なのだろう。

20年以上続いてきたこのパトロール。

こうして多くの立場の人たちが一緒に動く姿に、少し心強さを感じた一日だった。

2026/05/08
896/1000 言い争いはあっても、聴き争いはない。  

先日、上甲晃氏の講演会で、こんな言葉を聞いた。

「言い争いはあるが、聴き争いはない」

そしてもう一つ。

「話し方教室はあるが、聴き方教室はない」

なるほどな、と思った。

世の中には、上手に話す技術や、人前で伝える技術を学ぶ場はたくさんある。

けれど、“相手の話をどう聴くか”を学ぶ機会は、意外なほど少ない。

人はつい、「どう伝えるか」を考える。

しかし本当は、「どう聴くか」のほうが、人間関係に与える影響は大きいのかもしれない。

最後まで口を挟まずに聴く。

否定せずに聴く。

答えを急がずに聴く。

ただそれだけで、救われる人がいる。

仕事でも家庭でも、

人は「正論」を求めているようで、本当は「理解されること」を求めているのだと思う。

だから、聴いてもらえた人は落ち着く。

安心する。

そして今度は、相手の話も聴けるようになる。

“話す力”より、“聴く力”。

年齢を重ねるほど、その難しさと大切さを感じる。

2026/05/06
894/1000 スティングが映した“もう完成していた世界”   

昨夜、ふと観たくなって、The Stingを観た。

ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのあの名作である。

舞台は1936年のアメリカ、シカゴ。

今から90年前の世界だ。

しかし観ていて驚いた。

深夜営業のコーヒーショップにはレジがあり、人々は普通に電話を使い、バスが走り、鉄道が走り、自動車が走る。

街には広告があり、スーツ姿の男たちが酒を飲み、情報を集め、駆け引きをしている。

もちろんスマホもインターネットもない。

だけれど、「都市生活」というものの基本形は、すでに完成しているように見えるのだ。

もっと白黒映画のような、遠い昔の世界を想像していた。

しかし実際には、驚くほど“今”に近い。

むしろ、現代の私たちは、90年前に作られた都市文明の延長線上を生きているだけなのかもしれない。

そう考えると不思議な気持ちになる。

技術は猛烈に進歩した。

ポケットの中には世界中と繋がる端末が入り、AIまで登場した。

それでも、人間そのものはあまり変わっていない。

人は少し儲け話に夢を見て、夜更けにコーヒーを飲み、誰かを信用したり疑ったりしながら生きている。

90年前の映画なのに、登場人物たちが「昔の人」に見えない理由は、そこにあるのだろう。

むしろ、時代が変わっても変わらない“人間らしさ”の方に、私は驚かされた。

2026/05/04
892/1000 革命が必要な時   

明日は地域のお祭りで、その準備に駆り出された。

元々は平日に行われていたこの祭りだが、色々な思惑によってゴールデンウィークに移動された。

観光客を呼び込みたいという意図もあるのだろうし、時代に合わせた判断なのかもしれない。頭では理解できる。でも、現場に立つと、その変化はなかなかに重い。

子供の頃、この祭りは一大イベントだった。

あの独特の高揚感、屋台の匂い、町のざわめき。あの日だけは、いつもの町が別の顔をしていた。

けれど今は、申し訳ないがイベントとしてはオワコンと言わざるを得ない。

その意味や価値を語る人はおらず、形骸化した。

そしてもう一つ、当時の思惑に無かったものがある。

少子化と人口減少、そして核家族化だ。

主力となるはずの子どもと親たちは、ゴールデンウィークの方がむしろ家にいない。

出かける。帰省する。旅行に行く。

かつては学校を休校にしてまで地域全体で行っていたこのイベントも、今では人の良さと義務感で成り立つボランティア頼みと言えなくもない。

やりたい人がやる、というより、やれる人がやる。

その構図に、どこか無理が滲んでいる。

町の入り口に、祖父の寄贈した幟旗が立った。

 

それでもやはりそれは誇らしい。

祖父がどんな思いでそれを寄贈したのか、今となってはわからない。

ただ、こうして毎年きちんと立っているあたり、この町の律儀さみたいなものは感じる。

それでも祭りは続いていく。

中身が変わっても、形が先に残ることもある。

そしてその形に、あとから意味を探そうとするのが、私たちなのかもしれない。

やはり革命が必要なタイミングかもしれない。

2026/05/02
890/1000 ゴーストタウンの主   

明日の日曜日から、大型連休に突入する私たちの会社です。

4連休ということになりますが、一部の事業系ゴミ収集スタッフは、連休中も変わらず仕事をしています。

人が動く時、ゴミは出る。

私たちの会社が所在している鶴岡東工業団地は製造業の会社がほとんどですから、連休中はゴーストタウンのようにひっそりしています。

けれどその一方で、観光地、道の駅、ホテル、飲食店はかき入れどき。

人が集まり、にぎわいが生まれれば、その分だけゴミも出ます。

街の活動を止めないためにも、私たちの出番です。

連休中も収集に向かうスタッフがいるからこそ、地域のにぎわいは静かに支えられているのだと思います。

という事で、私も出社して、ゴーストタウンの主として思いっきり仕事をしようと計画しています。

静かな工業団地で過ごすゴールデンウィークも、なかなか悪くないものです。

人が動くところを支える側としての連休。

それもまた、私たちらしい過ごし方なのだと思っています
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