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今朝の新聞に、「多死社会 “無縁” の最期」という特集記事が載っていた。
孤独死。
無縁遺骨。
身寄りのない高齢者。
そんな言葉が並んでいた。
ただ、「孤独死」という言葉を見ながら、少し考えてしまった。
今は、いつでも誰とでも繋がれる時代だ。
スマホを開けば、世界中の人と会話できる。
SNSを見れば、誰かの日常が流れてくる。
動画を開けば、無音になることもない。
なのに、人は孤独になる。
いや、もしかすると、繋がりすぎているからこそ、孤独なのかもしれない。
昔は、もっと不便だった。
電話も気軽ではない。
会いに行かなければ顔も見れない。
それでも、人は自然と誰かの家へ行き、縁側で話をし、座布団を出し合っていた。
家には来客用の布団があり、泊まっていく前提の暮らしがあった。
今は違う。
誰にも会わなくても生きていける。
食事も届く。
仕事もできる。
買い物も済む。
便利になったはずなのに、人との接点だけが、少しずつ薄くなっている。
家財整理の現場へ行くと、その変化を感じることがある。
立派な仏壇。
客間。
大量の座布団。
押し入れいっぱいの来客用布団。
それらは、“誰かが来る暮らし”の名残だ。
けれど最近の家には、そもそも客間がない。
来客用の座布団もない。
ましてや布団もない。
合理的で、効率的で、片付いている。
だけれど、人間関係までミニマルになっているようにも見える。
「無縁」という言葉は、単に一人で亡くなることではないのかもしれない。
誰とも関わらずに生きること。
あるいは、誰とでも繋がれるのに、本当には繋がれないこと。
その静かな違和感のことを、時代は「孤独」と呼んでいるのかもしれない。