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最近、「存在者一中心の原理」という言葉に出会った。
どんな組織や共同体にも、“中心”は一つであるという考え方だ。
会社で言えば、
社長
部長
課長
係長
一般社員
それぞれに役割があり、それぞれに「中心」がある。
一般社員にとっての中心は直属の上司。
相談や報告も、その流れを通して行われることで、組織は安定して機能する。
しかし現代は、とにかくスピードが求められる。
「早い方がいい」
「直接聞いた方が効率的」
そうやって、いつの間にか“飛び越え”が増えていく。
もちろん悪気はない。
むしろ良かれと思っての行動だ。
しかし、それが続くと、少しずつ組織の足腰が弱くなっていく。
中間にいる人が育たない。
役割が曖昧になる。
責任の所在もぼやけていく。
これは会社だけの話ではないと思う。
家庭でも、地域でも、人が集まる場所には必ず“中心”がある。
子供から見れば親。
親から見れば、そのまた親。
縦のつながりがあるから、人は安心して立つことができる。
最近は「横のつながり」が重視される時代だけれど、実は縦のつながりも同じくらい大切なのだと感じる。
縦があるから、横も安定する。
根がしっかりしている木ほど、枝葉が自由に広がるのと少し似ている。
強い組織というのは、声が大きい組織ではなく、中心が定まっている組織なのかもしれない。
本日は、不法投棄防止の合同パトロールに参加してきた。
庄内地域の市町村、山形県、山形県警察、そして私たち廃棄物処分業者が連携して行っている活動だ。
私はもう20年以上、このパトロールに参加している。
その中でも今日は、少し印象に残る一日だった。
なんと本日は、鶴岡市の市長をはじめ、多くの議員の方々も現地に加わり、一緒にパトロールを実施したのだ。
私は市長とは別の地域を担当していたため、残念ながら同席することは叶わなかったのだが、市長自らが、乗用車のタイヤ68本が不法投棄されている現場を確認されたと聞いた。
不法投棄という問題は、単に「ゴミが落ちている」という話ではない。
地域の景観であり、自然環境であり、そこに暮らす人の意識そのものに関わっている。
数字だけ見れば「68本」だが、実際に現場に立つと、その異様さに驚かされる。
誰かが捨て、誰かが困り、最後は誰かが片づける。
その「最後の誰か」になってきたのが、私たちの業界でもある。
もちろん、現実にはもっと酷い現場もある。
しかし今日は、不法投棄の現場を見る一方で、「地域全体で守っていこう」という空気も感じた。
行政、警察、議員、そして現場の事業者。
立場は違っても、「この風景を守りたい」という思いは共通しているのだと思う。
庄内には、美しい海があり、山があり、田園風景がある。
だからこそ、それを守る活動もまた、地域に必要な仕事なのだろう。
20年以上続いてきたこのパトロール。
こうして多くの立場の人たちが一緒に動く姿に、少し心強さを感じた一日だった。
先日、上甲晃氏の講演会で、こんな言葉を聞いた。
「言い争いはあるが、聴き争いはない」
そしてもう一つ。
「話し方教室はあるが、聴き方教室はない」
なるほどな、と思った。
世の中には、上手に話す技術や、人前で伝える技術を学ぶ場はたくさんある。
けれど、“相手の話をどう聴くか”を学ぶ機会は、意外なほど少ない。
人はつい、「どう伝えるか」を考える。
しかし本当は、「どう聴くか」のほうが、人間関係に与える影響は大きいのかもしれない。
最後まで口を挟まずに聴く。
否定せずに聴く。
答えを急がずに聴く。
ただそれだけで、救われる人がいる。
仕事でも家庭でも、
人は「正論」を求めているようで、本当は「理解されること」を求めているのだと思う。
だから、聴いてもらえた人は落ち着く。
安心する。
そして今度は、相手の話も聴けるようになる。
“話す力”より、“聴く力”。
年齢を重ねるほど、その難しさと大切さを感じる。
昨夜、ふと観たくなって、The Stingを観た。
ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのあの名作である。
舞台は1936年のアメリカ、シカゴ。
今から90年前の世界だ。
しかし観ていて驚いた。
深夜営業のコーヒーショップにはレジがあり、人々は普通に電話を使い、バスが走り、鉄道が走り、自動車が走る。
街には広告があり、スーツ姿の男たちが酒を飲み、情報を集め、駆け引きをしている。
もちろんスマホもインターネットもない。
だけれど、「都市生活」というものの基本形は、すでに完成しているように見えるのだ。
もっと白黒映画のような、遠い昔の世界を想像していた。
しかし実際には、驚くほど“今”に近い。
むしろ、現代の私たちは、90年前に作られた都市文明の延長線上を生きているだけなのかもしれない。
そう考えると不思議な気持ちになる。
技術は猛烈に進歩した。
ポケットの中には世界中と繋がる端末が入り、AIまで登場した。
それでも、人間そのものはあまり変わっていない。
人は少し儲け話に夢を見て、夜更けにコーヒーを飲み、誰かを信用したり疑ったりしながら生きている。
90年前の映画なのに、登場人物たちが「昔の人」に見えない理由は、そこにあるのだろう。
むしろ、時代が変わっても変わらない“人間らしさ”の方に、私は驚かされた。明日は地域のお祭りで、その準備に駆り出された。
元々は平日に行われていたこの祭りだが、色々な思惑によってゴールデンウィークに移動された。
観光客を呼び込みたいという意図もあるのだろうし、時代に合わせた判断なのかもしれない。頭では理解できる。でも、現場に立つと、その変化はなかなかに重い。
子供の頃、この祭りは一大イベントだった。
あの独特の高揚感、屋台の匂い、町のざわめき。あの日だけは、いつもの町が別の顔をしていた。
けれど今は、申し訳ないがイベントとしてはオワコンと言わざるを得ない。
その意味や価値を語る人はおらず、形骸化した。
そしてもう一つ、当時の思惑に無かったものがある。
少子化と人口減少、そして核家族化だ。
主力となるはずの子どもと親たちは、ゴールデンウィークの方がむしろ家にいない。
出かける。帰省する。旅行に行く。
かつては学校を休校にしてまで地域全体で行っていたこのイベントも、今では人の良さと義務感で成り立つボランティア頼みと言えなくもない。
やりたい人がやる、というより、やれる人がやる。
その構図に、どこか無理が滲んでいる。
町の入り口に、祖父の寄贈した幟旗が立った。
それでもやはりそれは誇らしい。
祖父がどんな思いでそれを寄贈したのか、今となってはわからない。
ただ、こうして毎年きちんと立っているあたり、この町の律儀さみたいなものは感じる。
それでも祭りは続いていく。
中身が変わっても、形が先に残ることもある。
そしてその形に、あとから意味を探そうとするのが、私たちなのかもしれない。