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三日前のこと。通勤の道すがら、ぽとりと栗が落ちていた。見上げると、葉の間にまだ丸々とした実がいくつもぶら下がっている。ああ、秋だなと思う。買い物に立ち寄った店では、ハロウィンの飾りがずらりと並び、かぼちゃのお化けが笑っている。子どもの頃にはなかった光景だ。
ハロウィンが日本にやって来たのは、私が二十代前半のころだっただろうか。だけど正直、いまだにその正体はよく分かっていない。
さて、もうひとつ、最近思い出したのが三遊亭円右師匠の「クリスマス」という落語である。戦後しばらくの日本人が、クリスマスという異国の行事を“よく分からないまま”受け入れていた頃の空気が漂っている。昔の落語家さんは、イブを大晦日、クリスマスを元旦のようなものだと説明していたそうだ。つまり年越しと同じように浮かれ、同じように迎えればいい。だけど庶民にとっては、やっぱり「なんのこっちゃ」である。
円右師匠の「クリスマス」は、ちょっと世知辛くて、でも人間くさい。聴いた人が「こんなクリスマスだけは嫌だ」と思ったというのも分かる気がする。そう考えると、ハロウィンやクリスマスは、分からないまま笑いながら受け入れてきた文化の象徴なのかもしれない。
8月からトレーニングジムに通い始めました。毎回終わるともうクッタクタ。自分一人では絶対に到達できない領域まで負荷をかけられているのが分かります。
その領域に連れていってくれるのは、やっぱりトレーナーの存在。だからこそ身体や姿勢が少しずつ変わっていく。信頼が生まれ、感謝の気持ちが湧いてきます。
一方で、人生にも「苦難」というイベントが必ず訪れます。誰かによってもたらされたり、環境や出来事によって突然降りかかることもあります。これまではそういったストレスに対して、「嫌だけど頑張ろう」「何か意味があるのだろう」と、どこか重い気持ちで、あるいは、誰かや自分を責めながら立ち向かってきたように思います。
でも最近、気づいたのです。これはまだ本質ではなかった、と。あのトレーニングのように、負荷があるからこそ身体が変わるのと同じで、人生の苦難もまた、自分を理想の姿へ導いてくれるトレーナーなのだと。
もちろん、苦難なんてないに越したことはありません。けれど、それが現れるということは紛れもなく変化の兆し。よい方向に向かうしかない、そう思えるのです。
ですから、苦難には喜んで立ち向かう。そんな表現が今の私にはしっくりきます。てなことで、実はトレーナーだったのだと、驚いております。
今から10年以上前のこと。
日本で一番自動車を売ったという初老の男性とお話する機会があり、その時思い切って質問をしました。
「心掛けてきたことは、なんですか?」
返ってきた答えは、意外なものでした。
「一日に100回『ありがとう』と言うことだよ」
営業の極意といえば、商品知識や巧みな話術を想像していた私にとって、拍子抜けするほどシンプルな言葉。しかし、その後ずっと胸に残り続けています。
売れても「ありがとう」、売れなくても「ありがとう」。お客様に限らず、同僚にも家族にも。日々のささいな場面で感謝を言葉にする。その積み重ねが人の心を動かし、やがて信頼を築くのだと。
私自身、仕事や生活の中で結果や効率を優先してしまい、感謝の言葉を後回しにしていることが多いと気づかされます。だからこそ、あの一言は今も鮮烈です。
もちろん「一日100回」となると簡単ではありません。でも、いきなり大きな数字を目指す必要はない。まずは自分にできるところから。私は最近、ふと思い立って「一日10回ありがとう」を声に出してみようと決めました。
感謝は思っているだけでは伝わらない。口に出すことで、相手にも自分にも温かい余韻を残してくれる。今日もまた、小さな「ありがとう」を積み重ねていきたいと思います。
昨夜は赤川花火大会が開催され、夏の夜空に大輪の花が咲きました。そして一夜明けた今朝は、打ち上げ場所となった河川敷の清掃活動に参加してきました。私はほんの1時間ほどのお手伝いでしたが、実行委員の方々は今日一日、そしてこれから一週間をかけて片づけをされるそうです。年々評価や期待度が高まる赤川花火大会。その2時間のために、どれほど多くの人の熱が注ぎ込まれているのか、改めて胸に迫ります。
都会からインターンシップで来ていた大学生も清掃に加わっており、花火を観た感想を話してくれました。「これまではスマホで縦に撮るのが普通だったけど、赤川の花火は横で撮らないと収まらなかった」「首が痛くなるくらい高く打ち上がって驚いた」など、素直で新鮮な視点がなんとも面白かったです。
一方の私はというと、ここ数年は家でのんびり息子と音楽鑑賞。昨夜も"かせきさいだぁ"の夏の名曲「じゃ夏なんで」を大音量で流し、大いに盛り上がっていました。
来年はぜひ桟敷席から夜空を仰ぎたい。そんな楽しみを胸に、地域の誇りである赤川花火大会を、舞台裏の片づけからも少しだけ支えていきたいと思います。
習字というのは、手本があって初めて成立します。
けれど手本があるからといって、その通りに書けるかといえば、まったく別の話。筆の速さや力の入れ具合、紙に置く角度──ほんの少しの違いで、全然違う字になってしまいます。
この感覚は、人生や経営にもどこか似ている気がします。
世の中には「手本」と呼べる考え方や成功例があります。けれど、その通りに進めたからといって同じように結果が出るとは限らない。むしろ、そっくり真似してもうまくいかないことの方が多いのかもしれません。
だから大事なのは、手本を「なぞる」ことではなく、自分なりに解釈して消化し、身につけていくこと。習字が一枚ごとに違う表情を見せるように、人生も経営もまた、自分の手で書き進めていくしかないのだと思います。
8級から始めた習字も、気がつけば準初段。いよいよ初段を目指すところまで来ました。まだまだ納得のいく字は書けませんが、その試行錯誤の一枚一枚が、暮らしや仕事の手本探しと重なって見えてきます。