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先日、好きな落語の話になり、『牛ほめ』を挙げた。
与太郎が隠居から褒め言葉を教わり、それを覚えて牛の持ち主を褒めに行く噺である。噺家によって細かな違いはあるが、最後はおなじみのサゲに落ち着く。
それで先日観たサッカーワールドカップの日本対オランダ戦。試合を観ていてもっとも驚いたのが、オランダの監督がクーマンだったこと。
中学生の頃、私はサッカー部だった。1990年のイタリアワールドカップは夢中になって観ていた。当時のオランダは優勝候補。ファン・バステン、フリット、ライカールト、そしてクーマン。名前を聞くだけでワクワクしたものだ。
当時のオランダは優勝候補だったが、決勝トーナメント一回戦で後に優勝する西ドイツと激突し敗れたため、「早すぎる決勝戦」とも呼ばれた。
そのクーマンが今や代表監督なのである。
(あの大会はマラドーナも出ていたんだ)時の流れを感じる。
クーマンといえば、強烈なフリーキックで有名だった。異名は、「牛をも殺すシュート」
今の時代なら少々物騒な表現だが、それほどまでに威力のあるキックだったということだろう。
落語ではほめられ。
サッカーではシュートの威力に例えられ。
あのぼんやりしている牛も忙しい。
それにしても不思議なものだ。
中学生の頃にテレビで見ていた選手が、今もワールドカップの舞台に立っている。もちろんピッチの上ではなくベンチだが、その姿を見た瞬間、当時の記憶が一気によみがえった。
あの頃、夜更かしして試合を観たこと。
サッカーマガジンやサッカーダイジェストを何度も読み返したこと。
友達と誰が一番すごい選手か語り合ったこと。
クーマンの姿は、そんな記憶まで連れてきてくれた。
そんなことを考えながら、テレビの向こうのクーマンを眺めていた。あの日憧れた選手たちは歳を重ね、こちらもまた歳を重ねた。それでも、こうして懐かしい気持ちになれるのだから、ワールドカップというのはやはり特別な大会なのだと思う。
昨日、妻とニシンそばを食べに行った。
いつもごみ収集の仕事でお世話になっているお店だが、お客さんとして伺うのはたぶん10年ぶりくらいになる。
ここのニシンそばは忘れられない味だ。
熱々のかけそばの上に、甘辛く炊かれたニシンがのっている。箸を入れるとほろりと崩れるほど柔らかく、その旨味が少しずつ出汁に溶け出していく。
久しぶりにいただいたが、やはり美味しかった。
ふとメニューを見ると1,300円。以前は1,000円もしなかったような気がする。物価の上昇を感じるが、この一杯をいただいていると「高くなったな」というより、「この味を守り続けるのも大変だろうな」と思った。
そんなことを考えながら店内を見渡していると、別のことにも気が付いた。
このお店にはテレビがない。
音楽も流れていない。
店内にあるのは、お客さん同士の小さな話し声と、そばをすする音だけだ。
そして不思議なことに、お客さんは皆、周りに配慮しながらヒソヒソと会話を楽しんでいる。
誰かに注意されたわけでもない。
それなのに、その場にいる全員で心地よい空間を作っているような感覚がある。
なんだか親戚の家に遊びに来たような懐かしさがあった。
観光地や飲食店へ行くと、多くの場合、音楽が流れている。
賑やかさを演出するためなのだろうし、それが悪いわけではない。
でも昨日は、ふと考えた。
本当に音楽は必要なのだろうか、と。
店内に流れていたのは音楽ではなく、厨房から聞こえる天ぷらを揚げる音だった。
ジュワッという油の音。
そばをすする音。
小さな話し声。
そして忙しく立ち働く店主の気配。
そんな音たちが重なり合い、なんとも心地よい空間を作り出していた。
私たちはつい、何かを足すことを考えてしまう。
音楽を流す。
映像を流す。
飾り付けをする。
しかし、本当に価値を生むのは、足すことではなく引くことなのかもしれない。
余計なものがないからこそ聞こえてくる音がある。
昨日のニシンそばはもちろん美味しかった。
けれど、それと同じくらい、その店の静けさがご馳走だったように思う。
食べ終わる頃に運ばれてきたそば湯をつゆに注ぎ、最後の一滴までいただいた。
なんとも贅沢な時間だった。
サッカーW杯の結果で国中が熱狂する。
トランプ大統領の発言一つで株価が動く。
遠い中東で起きた出来事が、私たちの暮らしに影響を与える。
エルニーニョ現象が発生しているというのに、必ずしも冷夏になるとは限らないそうだ。
世界は複雑だ。
様々なものが絡み合い、一つの変化が思いもよらないところへ影響を及ぼす。
未来を正確に読むことなど、誰にもできないのかもしれない。
会社経営も同じだ。
設備投資がどう転ぶのか。
新しい事業がどう育つのか。
人との出会いがどんな未来につながるのか。
やってみなければ分からない。
今の一手が正しかったのかどうかも、その時には分からない。
後になって喜んだり、悔しんだり。
それが人生の面白みでもある。
そう考えると、息子の誕生日プレゼント選びも同じだ。
今年はベルトにしようかと思い、こっそり息子の部屋に忍び込み、引っ掛けてあったベルトのサイズを測った。
我ながら怪しい父親である。
喜んでくれるかどうかは分からない。
でも、分からないから考えるし、悩む。
世界情勢から息子の誕生日プレゼントまで。
私たちは毎日、答えのない問題に向き合っている。
読めない世界。
それでも、今を信じて行動する。
夕方、事務所の自動ドアが誰もいないのにスーッと開いた。
みんなは「気味が悪いですね」と笑っていたが、なぜか私は嫌な気がしなかった。
むしろ、何か良いものが入ってきたような気がしたのである。
もちろん、センサーの誤作動かもしれない。風のいたずらかもしれない。
けれど私は最近、世界はいろいろな形でシグナルを送っているように感じる。
人との出会い。
ふと耳にした言葉。
思いがけない出来事。
そして、会社の軒先に作られた二つ目のツバメの巣。
それらは単なる偶然かもしれない。
しかし、人生を振り返ると、後になって「あれが合図だった」と思う出来事が案外多い。
だから私は、良いことは良いように受け取ることにしている。
社屋が建って6年目、初めて作られた二つ目のツバメの巣。
そして夕方に開いた自動ドア。
世界が何を伝えようとしているのかは分からない。
ただ私は、こう受け取ることにした。
「今がその時だ」と。
聞かれていることに答える。
当たり前のことのようだが、これが案外難しい。
もちろん、何を聞かれているのか分からない時もある。あえて別の角度から話をすることもある。けれど、一番多いのは別の理由かもしれない。
自分の中にある「こうあるべき」という観念。
あるいは、自分を守りたいという気持ち。
そんなものが先に立つと、相手の質問よりも、自分の言いたいことの方が前に出てしまう。
「できますか?」
と聞かれているのに、
「いや、でも事情があって…」
と答えてしまう。
「どう思いますか?」
と聞かれているのに、
「実はあの時は…」
と説明を始めてしまう。
相手が求めているのは、まず答えなのに。
もちろん、背景や事情も大切だ。誤解を解きたい気持ちも分かる。私自身、そういう場面は少なくない。
しかし、聞かれていることに答えずに説明だけを重ねると、会話は少しずつずれていく。
そして話はこじれる。
社員との面談でも、家族との会話でも、お客様との打ち合わせでも同じだ。
まずは聞かれていることに答える。
説明はその後でいい。
最近、そんな当たり前のことを改めて意識している。
歳を重ねると、知識も経験も増える。けれど、その分だけ自分の考えに固執する危険も増えるのかもしれない。
だからこそ、ときどき立ち止まって確認したい。
私は今、相手の問いに答えているだろうか。
それとも、自分を守ることに夢中になっているだろうか。
会話が噛み合うかどうかは、案外そんな小さなところで決まるのだと思う。