総合案内 | 0235-24-1048 |
---|
ゴミ受付 | 0235-25-0801 |
---|
窓口 | 8:30〜11:45/13:00〜16:30 |
---|---|
電話対応 | 8:00〜12:00/13:00〜17:00 |
定休日 | 日・祝・土曜不定休・年末年始 |
先日、妻といろんな話をしている中で、こんな話題になりました。
「もしあの頃に戻れるとしたら、いつに戻りたい?」
最近よくある“タイムリープ”もののドラマや映画の影響か、ふたりして妄想が止まりません。
「小学校からやり直すのもいいよなあ」
「就職してから人生の選択を変えてみたいかも」
「いや、あの時、あの人にああ言っていれば…」
やり直したいこと。やってみたかったこと。
過去の“もしも”を並べると、無限にストーリーが浮かんできます。
でも、その話をした翌朝、ふと気づいたんです。
もしかしたら、今この瞬間こそが「あの頃」なんじゃないか?
たとえば、20年後の自分がこの日を振り返ったとしたら、
「ああ、あの頃に戻れたら」と思うかもしれない。
疲れていても、まだ体が動く今。
大切な人と一緒に暮らしている今。
こどもたちが家の中を騒がしく走り回る今。
未来から見れば、きっとまぶしいくらいの「あの頃」。今というあの頃はこれからも無限にあります。
そう思うと、過去に戻ることを妄想するよりも、
今この瞬間を、大切に味わうことの方が、
ずっとリアルで、ずっとすごくいいあの頃だったのだと感じられてきました。
だったら、毎日をもう少し丁寧に、
少し新鮮な気持ちで生きてみてもいいのかもしれないなと。
ということで、暑いですが参りましょうか!
高校一年の息子が、夏休みに突入した。
部活とスマホ三昧の日々に、学校からひとつだけ渡されたミッション——読書感想文。
しかも「新潮文庫の100冊から1冊選んで書け」という条件付きだ。
普段、本なんてまるで読まない息子。
まずやったのが、iPadに「何読めばいい?」と聞くこと。
令和の読書はAI頼みか、と苦笑いしつつも、ちょっと懐かしくなって私も100冊のラインナップを見てみた。
あった、あった。「車輪の下」「坊っちゃん」「罪と罰」……
あの頃と変わらぬ顔ぶれもいれば、「博士の愛した数式」「ツナグ」なんて、時代を感じる新顔たちも並んでいた。
悩む息子を前に、私が“初めての純文学”として選んだのは、夏目漱石の「こころ」。
高校生が読むには、やっぱりこれだろう。
あの独特の重たさ。静かに沈んでいくような読後感。
「なんかモヤモヤするんだけど…」と彼が言ってくれたら、父としては満点なのだ。
意気揚々と本屋に行くと——「こころ」、まさかの品切れ。
この国に「こころ」がないなんて、と少しばかりセンチメンタルになる父。
それでも手ぶらでは帰れない。
次なる選択肢として手に取ったのは、三島由紀夫の「金閣寺」。
ちょっとハードル高いか?と一瞬迷ったけれど、
美と破壊と、言葉の強度。
感情が揺さぶられる読書体験なら、きっとこれもまた“入口”になる。
そう信じて帰宅し、本を差し出した瞬間、息子が一言。
「わぁ、つまらなそう!」
……心、折れるかと思った。
いやいや、グッと堪えて思いなおす。
いつか彼はきっとわかるはずだ。
この装丁の重み、三島の文体の鋭さ、そして人間の内面の奥深さ。
「これを選んだお前のセンス、最高じゃん」と未来の誰かが褒めてくれる日が来る。
そんな小さな期待をこめて、父は今日も黙って見守るのである。「この道具が作られた頃と、今とでは、時代も価値観もまるで違う。」
古道具を見つめていると、ふとそんなことを思います。
手に取ったその椅子、棚、器どれも昔は“現役”でした。
毎日の暮らしの中で使われ、人の手に馴染み、当たり前のようにそこにあったもの。
けれど今、その当たり前はすっかり変わりました。
暮らしのスピードも、道具の役割も、物に対する価値観も。
それはつまり、その道具を作った職人の「意図」が、
もう現代には通じない世界になってしまった、ということでもあります。
でもだからこそ、私たちの出番です。
時代が変わり、用途が変わり、意味が変わったとしても
私たちが新たな視点と感性で、その道具に新しい意図を与えれば、
それは再び“生かされる”のです。
たとえば、座れなくなった古い椅子に草花を飾る。
使われなくなった木箱を、店先のディスプレイにする。
本来の役目を終えたものに、まったく新しい意味を宿らせる。
それは「使い回す」ことではなく、「生かす」こと。
20年テーマに掲げてきた「人・物を生かす」という言葉が、
まさにこの取り組みに重なります。
作った人が届けたかった“意図”を越えて、
いま、別の誰かの手で“新しい命”が吹き込まれる。
そこに気づき、感謝し、行動することで、
私たちの暮らしもまた、少しだけ豊かになっていくのかもしれません。就職して初めてのボーナスで買った、マランツのアンプとB&Wのスピーカー。
当時の私は、自分の部屋で音楽を聴く時間が、何よりも大事だった。
でも、子どもが生まれ、家がにぎやかになっていくにつれて、
その大切な時間も、機材ごとどこかに追いやられていった。
気がつけば、音楽を聴くのはもっぱら車の中。
そしてあのスピーカーたちは、最後には公共施設に寄付された。
いい人生だったよな、などと感謝すらして。
それから25年。
久しぶりに、スピーカーを買った。
オーディオテクニカのBluetoothスピーカー。30W。
昔ほど大きくはないけど、ちゃんと“鳴る”。
コードも要らない。スマホひとつで、すぐに自分の世界ができる。
設置場所はもちろん、自室。
音楽を流してみると、驚くほど気持ちがいい。
久々に、音の中に身を沈める感覚。思わずボリュームを少しだけ上げてしまう。
すると、部屋にこもりがちだった息子と娘が、音に引き寄せられるように顔を出してきた。
ふたりとも無言で入ってきて、リズムに合わせて首を縦に振っている。
「最高じゃん!次、俺選曲していい?」と息子。
娘も、自分のスマホをBluetoothに接続しようとしている。
25年ぶりのスピーカーが、まさか子どもたちとの小さな橋渡しになるとは思ってもいなかった。
が、ひとつ問題がある。
スピーカーが届いて以来、妻の機嫌があきらかに悪い。
「なんでいまさら、そんなに音を鳴らすの?」
「子どもたちより、あなたのほうが青春してるじゃない」
「ていうか、うるさい」
…ごもっともである。
けれど、心のどこかで思ってしまうのだ。
デカイ音を鳴らすと、自分が少しだけ“自分”に戻れる。
だから、ちょっとくらい許されないだろうか。
いや、…ダメかもしれないな。