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会社のツバメたちが無事に巣立った。
とはいえ、まだ遠くへ旅立ったわけではなく、日中は会社の周辺を元気に飛び回っている。巣は空っぽになったが、空を見上げると若いツバメたちが風を切りながら飛ぶ姿が見える。
先日、一羽のツバメが私の頭上すれすれをスーッと飛んでいった。
もちろん偶然なのだろうが、
「飛べるようになったよ」
と報告しに来たように見えた。
数週間前まで、巣の中で親鳥を待っていた小さな命である。それが今では自由に空を飛び回っているのだから大したものだ。
一方、自宅の中庭では小鳥が子育ての真っ最中だ。
毎日見ているはずなのに、いつの間にか木の枝に巣が作られていた。どこから材料を集めてきたのか、いつ完成したのかも分からない。人間が気づかないうちに、着々と準備を進めていたらしい。
そして気づけば、ひなが生まれていた。
そして庭の中を低く飛び回る。
ゴルフボールより一回り小さいくらいの体なのに、翼はしっかり鶯色で胸は真っ白。まだ頼りなさそうに見えるが、その小さな体にはちゃんと鳥の形ができあがっている。
とにかくかわいい。
巣から出ても親鳥は忙しそうに何やら世話を焼き、ひなたちは賑やかに鳴いている。その声の賑やかな事。
会社ではツバメが巣立ち、自宅では小鳥が育っている。
昔から、鳥が巣を作る家には福が来るとか、良い知らせの前触れだとか言われる。
鶯が巣を作ったのはこの20年で初めてだ。
だから私は、もちろん吉兆の知らせだと信じている。
朝から息子が落ち着かない様子だ。今日は英検準一級の試験日である。
これまで、キッチンタイマーで時間を測りながら机に向かう姿を何度も見てきた。問題集を開き、単語を覚え、英作文を書いては見直す。その積み重ねの先にあるのが今日なのだろう。
私は試験会場までの送迎を頼まれた。
車に乗り込んだ息子は、何やらびっしり書き込まれたノートを見返している。聞けば英作文についてまとめたものだという。
英作文にはポイントがあるらしい。
①主張が明確であること
②理由が二つあること
③最後に主張を別の言い方で結論づけること
なるほどと思った。
特に私が気に入ったのは「理由が二つあること」だった。
一つだけではなく、もう一つ。
そういえば私は映画や小説でも、そういう仕掛けが好きだ。
何気ないセリフに別の意味が隠れていたり、登場人物の行動に実はもう一つの意図があったりする。初めて見た時には気づかないのだが、後になって「ああ、そういうことだったのか」と分かった瞬間、思わずニヤッとしてしまう。
人の言葉も同じかもしれない。
厳しい言葉の奥に優しさがあったり、ぶっきらぼうな態度の裏に照れくささがあったりする。
物事には、一つだけではなく、もう一つの理由が隠れていることがある。
理由が一つしか見えない時は、もう一つ探してみる。
そんな見方ができると、世の中は少しだけ面白くなるのかもしれない。
服装は自由なのに、なぜか制服で試験会場へ向かった息子。
理由は分からない。
けれど、その姿を見て「ああ、本気なんだな」と思った。
英作文の理由は二つ必要らしいが、この制服の理由は一つで十分だったような気がする。
今日は月末の集金日だった。
町を回りながら、改めて周囲を見渡してみる。
すると、いつの間にか看板が外されている店を何軒か見かけた。
「あれ、ここもか。」
ついそんな言葉が口をつく。
営業している時は当たり前の風景だったのに、看板がなくなると急にその存在の大きさに気付かされる。不思議なものだ。
少し寂しい気持ちになった。
しかし、その一方で、新しい店の開店準備をしている場所もあった。まだ看板は付いていないが、内装工事が進み、人の出入りがある。
閉じる店があれば、始まる店もある。
当たり前のことなのだが、その光景を見ていると町そのものが生き物のように感じられた。
生き物は終わることが最初からプログラムされているという。
もし終わりがなければ、新しい命も生まれず、進化も起きなかっただろう。
終わるからこそ、次が生まれる。
町もまた同じなのかもしれない。
昔、経営の勉強をした時に教わった言葉がある。
「企業の目的は顧客の創造である」
ドラッカーの言葉だ。
利益を上げることでも、会社を大きくすることでもない。社会に新しい価値を生み出し、その価値を必要とする人を増やしていくこと。
どんなに歴史のある会社でも、それができなくなれば役割を終える。
逆に、新しく生まれる店は、まだ見ぬ顧客との出会いを信じて挑戦を始める。
看板を下ろした店も、看板を掲げようとしている店も、その姿は違うようでいて、実は同じ流れの中にあるのだろう。
終わりと始まり。
衰退と進化。
それは対立するものではなく、隣り合わせに存在している。
月末の集金日。
車を走らせながら見た町の風景が、妙に心に残った。
そして私たちの会社もまた、新しい看板を掲げ続けられる存在でありたいと思った。
お昼はいつも妻の作った弁当だ。
以前も書いたが、昼に何を食べようか悩まなくていいのは本当にありがたい。朝、何も考えずに弁当の入ったミニトートを持って出勤できる。
しかし、妻の弁当には少し変わった特徴がある。
それは「オプション」が付いていることだ。
バナナの日もあれば、クッキーの日もある。カルシウムウエハースやナッツが入っていることもある。まるで期間限定サービスのように、何かしらのおまけが忍ばせてあるのだ。
そして今日。
ミニトートから妙に長いものが飛び出していた。
「なんだこれは……」
恐る恐る引き抜いてみると、出てきたのはチョコレート味のチョロスだった。
しかも一本丸ごと。
どこで買ってきたのかは知らないが、とにかく長い。
昼休みの事務所で、中年男性が一本のチョロスを持っている姿はなかなかの破壊力である。人目をはばかりながら食べることになった。
だが不思議なもので、こういう予想外のものが入っていると少し嬉しい。
弁当そのものもありがたいのだが、その日のオプションを見るのも密かな楽しみになっている。
明日は何が入っているのだろう。
そんなことを思いながら仕事をしている自分がいる。
弁当箱の外にも、ちょっとした楽しみは詰まっているものだ。
今朝の新聞に、「多死社会 “無縁” の最期」という特集記事が載っていた。
孤独死。
無縁遺骨。
身寄りのない高齢者。
そんな言葉が並んでいた。
ただ、「孤独死」という言葉を見ながら、少し考えてしまった。
今は、いつでも誰とでも繋がれる時代だ。
スマホを開けば、世界中の人と会話できる。
SNSを見れば、誰かの日常が流れてくる。
動画を開けば、無音になることもない。
なのに、人は孤独になる。
いや、もしかすると、繋がりすぎているからこそ、孤独なのかもしれない。
昔は、もっと不便だった。
電話も気軽ではない。
会いに行かなければ顔も見れない。
それでも、人は自然と誰かの家へ行き、縁側で話をし、座布団を出し合っていた。
家には来客用の布団があり、泊まっていく前提の暮らしがあった。
今は違う。
誰にも会わなくても生きていける。
食事も届く。
仕事もできる。
買い物も済む。
便利になったはずなのに、人との接点だけが、少しずつ薄くなっている。
家財整理の現場へ行くと、その変化を感じることがある。
立派な仏壇。
客間。
大量の座布団。
押し入れいっぱいの来客用布団。
それらは、“誰かが来る暮らし”の名残だ。
けれど最近の家には、そもそも客間がない。
来客用の座布団もない。
ましてや布団もない。
合理的で、効率的で、片付いている。
だけれど、人間関係までミニマルになっているようにも見える。
「無縁」という言葉は、単に一人で亡くなることではないのかもしれない。
誰とも関わらずに生きること。
あるいは、誰とでも繋がれるのに、本当には繋がれないこと。
その静かな違和感のことを、時代は「孤独」と呼んでいるのかもしれない。