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中学の3年間、軟式テニスに打ち込んだ息子。
高校では硬式に転向して、また一からのスタート。
正直、最初はどうなることかと思っていたけれど、案外楽しそうに練習に通っている。
気になって、久しぶりにコートへ足を運んでみた。
風が少し冷たくて、でもなんだか気持ちいい。春のにおいがした。
通りかかる部員たちが「こんにちは!」って、明るく声をかけてくれるのがうれしい。
いい雰囲気のチームだなって、それだけで安心する。
コートの向こうから聞こえてくる音。
「パンッ」「パンッ」──硬式特有の、乾いたあの音。
聞き慣れた軟式の“パコン”っていう音とは少し違がった。
息子はというと、硬式のスピードの速さに戸惑いながらも意外と集中していて、ちゃんと打ち込んでる。
フォームもややぎこちないけど、まっすぐにボールを追いかけてる姿にちょっとびっくりした。
思ってたより、ずっと真剣だ。
中学の頃は毎週のように練習や試合について行ってたけど、
今は少し離れたところから見ているのがちょうどいい。
その分、こうしてふと足を運んでみたときの嬉しさがある。
息子同様、またコートに戻って来れたのが嬉しい。
今日は地域の資源回収の日。年に数回のこの行事も、気づけばもう20年近く関わっている。朝の空気は少しひんやりとしていて、トラックの荷台が冷たく、心なしか町の景色も静かだ。
ここ数年、特に感じるのが「紙」の変化だ。新聞紙も雑誌も、明らかに減ってきている。情報の主戦場が紙からスマホやタブレットに移ったのは言うまでもないけれど、それにしても落差が大きい。かつての紙の山は、知識や娯楽の象徴だった。今はその役目を終えたように、ひっそりと段ボールの陰に隠れている。
その代わりに増えたのが通販の箱。Amazon、楽天、ヨドバシ……町の半分は段ボールでできてるんじゃないかと思うほどだ。中身はもうないが、ラベルからわかるのは「人とモノが直接会わなくても成立する暮らし」の姿だ。誰とも会わず、どこにも行かず、欲しいものは家に届く。便利だけれど、少しだけ寂しい。
面白いのは、時々混ざって出てくる古い漫画の単行本。今日は『魁!!男塾』に『孔雀王』。濃い。今のコンプライアンスに引っかかりそうな勢いが、むしろ新鮮だ。「こういう時代だったんだよな」と苦笑しながら束ねる。教科書や辞書もよくある。これはきっと、誰かが巣立った印だ。受験を終えた子どもが、親に「もうこれ捨てていいよ」と言った瞬間を想像して、少し胸が温かくなる。
回収を手伝うメンバーも、かつては“青年団”だったが、今や“人生経験豊富団”。作業中に飛び交うのは「肩がね」「五十肩かも」なんて健康話。でもその合間に、「息子が帰ってこなくてね」とか「この辺も空き家増えたなぁ」なんて呟きが混じると、あぁ、町も変わってるんだなと実感する。
そして、必ず誰かが言う。「そこの若いの、こっちも持ってってくれや!」。“若いの”と呼ばれる最後の世代として、私は今日もトラックの荷台に乗る。段ボールも漫画も辞書も、すべては誰かの暮らしの断片。そのひとつひとつに、地域の時間が詰まっている。
春の足音とともに、また総会シーズンがやってきた。スーツに身を包み、時間通りに集まる人々。議題は例年通り、進行も滞りなく。配布された資料には一応目を通すけれど、正直、内容は大きく変わらない。質疑応答も、予定調和のように短く収束する。
そして、その後に待っているのは、懇親会という名の“お付き合い”の場。名刺を交換し、「お久しぶりです」と笑顔を交わす。数年前、コロナの影響でこうした集まりが軒並み中止になっていた頃には、「正直、なくても困らないかも」と思っていた。むしろ、予定が空いてホッとしたくらいだった。
でも、いざ元通りに再開されてみると、「ああ、この人に会うのも久しぶりだな」と、顔を見て自然に笑みがこぼれている自分がいる。特別に親しいわけではないけれど、ここでしか会えない、ここでしか話さない人たち。何気ないやりとりの中に、ちょっとした懐かしさや安心感が滲んでくる。
たしかに、すべてが必要だとは思わない。惰性で続く「お決まりのパターン」には、見直す余地があるとも感じている。コロナ禍という一時停止の時間を経て、本当はもっと柔軟な形を模索することもできたはずだ。けれど、慣例を変えることはそう簡単ではない。「変えよう」と声を上げることには、思っている以上に勇気が要る。長年続いた空気は、一人の力ではなかなか揺るがない。
だから結局、今年もまた時間通りに集まり、議事をこなし、「お疲れさまでした」と拍手をする。ほんの少しの違和感を胸に抱きながら。でもその帰り道、「やっぱり、顔を合わせて話すっていいな」と、ふと感じる瞬間もある。
変わらないことの安心と、変えられないことへのもどかしさ。そしてその間にある、小さな喜びや再会の温かさ。そんなものが入り混じった春の一日が、また静かに過ぎていく。
気持ちがざわつく・ガサガサする日は、整理をする。理由がはっきりしなくても、なんとなく落ち着かない日こそ、身の回りを整える。
ほんの少しのイライラや、細かいことが気になって仕方ない日は、片づけのタイミングだ。書類をまとめ直す。読み終えた本を本棚に戻す。たったそれだけでも、頭の中にスペースができる。
整理をすると、小さな達成感が生まれる。目に見える部分が整うと、気持ちも落ち着いてくる。ああ、自分はちゃんとやれている。そう思えるだけで、次の一歩が少し軽くなる。
今日はできなかったけれど、側溝掃除をしようと思っていた。冬の間に詰まった泥を掻き出して、水の流れを戻す作業。目立たないし、面倒にも感じる。でも、やってみると意外なほど気持ちがいい。詰まりが取れて、水が流れ出す音を聞くだけで、自分の中までスッと通る気がする。
片づけも掃除も、自分の調子を整えるための習慣だと思う。暮らしの中で、気づかないうちに溜まっていたものを、少しずつ手放していく。心の中に静けさを取り戻すために、余白をつくる。
毎日をうまくやりくりしているつもりでも、知らないうちに抱えすぎていることがある。だからこそ、気持ちがもつれそうな時は、まず身の回りから整える。モノを手放すことで、余計な考えや感情にも距離を置けるようになる。
「手放すと楽になるのは分かっているのに、どうしても手放せない。」
そんな場面に、私は何度も立ち止まってきた。自分の中にある「こうでなければ」というこだわり。ときにそれは、理想や信念として私を支えてくれるけれど、反対に人との間に壁をつくったり、自分自身を苦しめたりもする。
たとえば、仕事のやり方や生活のスタイル。こうあるべき!とかこうありたい!という想いの強い私は、周囲の人とテンポが合わずに戸惑うことがある。心の中では「もっと柔軟になったほうがいい」と思いながらも、こだわりを手放すことに抵抗があるのだ。それはまるで、自分らしさを手放してしまうような感覚にも近い。
けれど、すべてのこだわりが悪いわけではない。問題は、そのこだわりが自分や周囲を縛りつけるような“固さ”を持ってしまったとき。大切なのは、こだわりを持つことそのものではなく、それを「どう扱うか」なのだと思う。頑なに握りしめるのではなく、手のひらにふんわりと載せて、必要なときにだけ使う。そんなバランス感覚が、今の私には必要だ。
こだわりを持ちながらも、状況や相手に応じて柔らかく動く。そこには少し勇気が要る。でも、頑固さを手放すことは、自分自身を否定することではなく、自分をより自由にしてあげることでもある。そう思えるようになったとき、対立の中にも少しずつ余白が生まれてくる。