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「継続は力なり」とはよく言うけれど、
実際に何かを続けている人は、案外少ない。
なぜ、多くの人が途中でやめてしまうのか。
よく挙げられる理由としては、たとえば
① 目標が曖昧
② 結果が出ないことへの焦り
③ 周囲からの反対や無理解
④ 完璧主義ゆえの自滅
なるほど、と思う。
どれも、胸に覚えがある。
「これ、何の意味があるんだろう?」と立ち止まりそうになったり、
アクセス数が伸びなくてモヤモヤしたり、
「そんなの続けてどうするの」と言われて心がぐらついたり。
そして何より、“ちゃんとやらなきゃ”が重荷になる瞬間がある。
それでも、僕は今、もうすぐ600日。
ブログを毎日書いている。
正直、ここまで続くとは思っていなかった。
なぜ続けられたのか
それはたぶん、「絶対」をやめたから。
「今日書けなかったら、明日2本書けばいい」
「抜けたらそこで終わり」じゃなくて、
「抜けても、また続ければいい」
そんなふうに思えるようになったのが大きい。
完璧じゃなくていい。
中身がなくても、たった一行でもいい。
“空白にしない”ことだけが、ひとつの目安だった。
そしてもうひとつ。
最初は「誰かに届けたい」とか「発信力をつけたい」と思っていたけれど、
途中からは「昨日も書いたから、今日も書こう」それだけになっていた。
それって、意外と悪くない。
派手なご褒美はないけれど、
続けてきた日々が、じわっと自信になっている。
何かを続けられるかどうかって、
意志の強さじゃなくて、“自分に少し優しくなれるかどうか”なのかもしれない。
ごみ収集は、夏が一番きつい。
匂いも強くなれば、重さも増す。
それでもこの季節が来ると、僕の中ではある記憶が蘇る。
今日、すれ違った収集車から、あの匂いがした。
ちょっと甘くて、鼻をつく、あの独特のにおい。
人によっては顔をしかめたくなるような匂いかもしれない。
でも、僕にとっては、誇らしい匂いだった。
40年前の夏休み。
家の窓から、向かいの旅館にごみ収集車が来るのを眺めていた。
作業していたのは、父の会社の若いスタッフたち。
父本人はいなかったけれど、彼らの姿にどこか“父の背中”を重ねていた。
祖母はその時間になると、冷蔵庫から瓶のサイダーを取り出す。
タオルでくるんで、それを収集車の作業員にそっと渡す。
僕は、その冷えたサイダーが飲みたくて仕方がなかった。
でもそれは、いつも、黙々と汗を流す大人たちのものだった。
僕はその収集車に乗ることはなかった。
けれど、その匂いとともに芽生えた憧れの気持ちは、今も残っている。
そして今──
収集車に乗っているのは、僕のスタッフたちだ。
昔の僕が憧れたあの姿に、今は自分の仲間が立っている。
その事実が、どこかくすぐったくて、少しだけ誇らしい。
あの匂いは、何も変わらない。
だけど、それを見つめる僕の立ち位置は、確かに変わっている。
あの夏のサイダーのように、
冷たくて、少し遠くて、だけどちゃんと心に沁みている──
そんな記憶とともに、今年の夏も始まっている。
妻と娘が“推し活”で東京に出かけた朝。
残された男子チームに、二枚のメモが託された。
テーブルの上には、丁寧にびっしりと書かれた指令書。
そこには、洗濯のやり方や、冷蔵庫の何を捨てていいか、さらに──
「ペットボトルはラベルとキャップを取ってから」
「猫のナナちゃんが来たら、氷入りの水をあげて」
「近所のトラ(猫)が来たときは、うちの子たちとバッティングしないように注意」
情報量がすごい。愛と配慮に満ちている。
だが同時に、問題もある。
例えば洗濯の欄には、「1番左のボトルを最初、次に真ん中のをちょっとだけ」とある。
……が、ボトルの中身の名前は書いてない。
おしゃれすぎて、どれが洗剤で、どれが柔軟剤か分からない。
そもそも“ちょっとだけ”って、どれくらい?
小さじ? 手の感覚? 僕の裁量?
こういうときに「手伝おうか?」なんて言葉は禁句だ。
なぜなら「手伝う」は、妻の仕事であると決めつけている響きを含むから。
でも実際は、手伝いたいのだ。やる気もある。
ただ、いろんなことが分からないだけなのだ。
洗剤のタイミング、ナナちゃんとトラの顔の見分け方、そしてペットボトルの一時置き場。
男子チームは今日、柔軟剤なしで洗濯を回し、冷蔵庫のタレと格闘し、
ゴミ袋を家中探し回った挙句、廊下のチェストで発見した。
きっと妻が帰ってきたら、「ここ、やってないじゃん」と言うだろう。
でも僕たちは言いたい。
「ぜんぶ、ちゃんとやったんだよ。やり方は独特だったかもしれないけれど」
と。コロナで寝込んでいます。
これで3回目。半年おきにかかっていて、しかも毎回、大きなイベントが終わったタイミングでやってくる。
今回はとにかく頭がガンガンして、何も考える気が起きません。
「こういう機会に、新しい目標でも立ててみようかな」なんて思ったけど、ムリ。
目は閉じてるけど、思考は漂っていて、何も考えてないようでいて、
「次、どうする?」という問いだけは、自分の中にそっと投げておきました。
答えなんて出てこないし、探す元気もないけれど、
きっとこの問いを受け取った“どこかの自分”が、ぼんやりと考えてくれている気がしています。
今はまだ見えないだけで。
今日もとにかく寝て、回復を待ちます。
歯だけはちゃんと磨いて、あとはもう、な〜んにもしません。
たまには、そんな日もいいじゃないですか。かっこいい人って、ほんとうにいる。
それは何かっていうと、“スタイル”とか“世界”を持っている人のこと。
ブランドの服とか、いい時計をしてるとか、もちろんそういうんじゃない。
自分の軸で立っていて、ブレない。
何を着ていても、その人らしさがにじみ出てる。
そういう人に出会うと、自分なんかまだまだだなぁと思う。
服のセンス云々より前に、もっと内側を磨かないと、と。
最近、息子に服の選び方を少しずつ教えている。
と言っても偉そうに指南してるわけじゃなくて、
30年かけて私が失敗してきた記録を、ちょっとずつ伝えているだけ。
「大柄の模様は似合わないぞ」とか、
「首元はキュッとした方が小林家の顔には合う」とか、
そんなことばかり言ってるけれど、
その裏には、“自分がどう見られたいか”より
“自分がどう在りたいか”を大切にしてほしいって思いがある。
ほんとうにかっこいい人って、外側だけじゃない。
言葉が自然体で、呼吸が落ち着いていて、
背筋が伸びてて、自分のペースで歩いてる。
服は、それを支える一つのツールでしかない。
だから私も最近では、“似合うかどうか”より
“この服を着て、どんな自分でいたいか”を考えて選ぶようになった。
結局、息子にアドバイスしてる言葉は、
全部、自分にも向けているんだと思う。